HOME » 表現活動日記 » 『闇の子供たち』上映中止と北京オリンピック開閉開式
掲載日:2008年09月24日
現在日本で上映中の『闇の子供たち』が、タイで開かれていたバンコク国際映画祭で上映中止になった。
この映画は梁石日(ヤン・ソギル)の小説『闇の子供たち』を映画化したものである。僕はこの原作のみを読んでいるのだが、小説ではタイでの売買春、その中でも特に幼児売春の実態がリアルに描かれている。
どのようにして親に10歳の子が売り飛ばされるのか、商品として買われた子どもがどのように扱われ、閉じ込められ、仕込まれ、絶望の中で性奴隷となるのか。そして病にかかった子どもが文字通り廃棄された後、また新たな奴隷が商品として調達されてくるのか。その常に拡大再生産され続ける児童売買春産業の実態が、調達する売春業者側と、被害者である子どもたち、そしてその実態を摘発しようとするNGOといった複数の視点で描かれるのである。
物語ではタイにおける幼児売春の事実が当然のものとしてグロテスクに描かれている。さらにここに幼い児童の臓器売買の問題が絡んでくるのである。ある意味、映画祭の実行委員会が上映中止にしたのも当然だと言えよう。そこには政治的な理由が密接に絡んでくる。扱っている対象は違うが、日本で同じく政治が絡んだ『靖国』や、昭和天皇を描いた『太陽』を上映することがいかに難しかったのかを考えればよくわかる。
実行委員会は「児童売春や臓器売買などの内容を含み、タイのイメージを傷つける恐れがあると判断した」と上映中止の理由を説明している。たとえ全国ロードショーなどとは違った特殊な映画祭の場であったとしても、政治に携わる者からすれば上映しないにこしたことはない。なぜなら一般市民が見ることによってどのような政治的な反応が起こるかは予測不可能だからである。少なくとも政治的なメリットは見出せない。だからこそ上映中止にする。全てはシンプルなのだ。
タイ当局が「無許可撮影」と一方的なクレームを付けるのも、政治的な理由からである。政治を仕事(商売)としている者は作品の価値を、政治的な見地、プロパガンダの観点から見る。その意味でタイの政治家が受け入れがたい作品を上映中止にするのは当然である。むろんその判断をどのように評価するかは別としてもである。
政治家と表現者(芸術家)、どちらの観点が正しく絶対だと言うことはあり得ない。誰もが複合的な観点を持っている。ただしあくまでも表現者は表現者としての観点から作品を見ようとするだけである。
阪本順治監督が、「タイの人たちの意見や感想を聞きたかったのに、本当に残念だ」と語るのは表現者として当然のことだ。だがそれでは北京オリンピックの閉会式に対する極めて政治的な報道はどうなのか?
日本や海外のメディアはあの開閉開式を政治的なものとして取り扱った。しかし監督の張芸謀(チャン・イーモウ)は、そのような報道に対し「気にとめない。芸術の創作上のことで小さなことを意図的に拡大するのはよくない。それで開会式を否定しようとするのはなおさらよくない」 と述べた。そこには確固たる表現者の意志が存在している。
二人の監督の片方が正しく、片方が間違っているなどと言うことはあり得ない。政治状況や国柄の違いを言うのは、それこそ政治的な見方に自らが支配されている証拠である。政治的な作品は、その人の政治的立場のみならず、その人自身の世界と人間の見方、その極端な偏りを映し出す鏡なのである。