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杉浦 基(スギウラ モトイ)は、思考の道具である論理を表現活動の手段として用いる「表現活動者」(批評家・評論家)です。言い換えれば、ちょっと特殊な「物書き」です。
僕は表現行為を、テクストをこの世界に表すことで自分自身をこの世界に現すことだと考えています。
僕はテクストの読み書きを通じて、どうしたら私たちが確かな「生きる意味」を手に入れられるのかを考えてきました。
日本大学芸術学部の大学院で、表現する(=書く)ということ、表現されたもの(テクスト)を読むと言うこと、書き手によって表現されたテクストとその主体的な読み書き(表現と読解)について研究してきました。
用いているのは主に文学理論(テクスト論)と哲学(現象学や解釈学や実存思想)の考え方です。
僕は自らの思索の集大成として、僕は2008年春、日本大学大学院芸術学研究科に学位請求論文を提出し、芸術学の博士号 [Doctor of Art] を取得しました。肩書きは芸術学博士です。
僕は表現活動は人間が自ら「生きる意味」を獲得するための一つの方法(在り方)だと確信しています。
私たちは誰もが表現行為を自覚的な「活動」(表現活動)として行うことで「生きる意味」を獲得できるのです。
杉浦基の考え方(思想)は、自分の人生経験、自らの実存(生の在り方)に基づくものです。
僕の人間観や世界観は、その中で得た数多くの友人や仲間、先生との活動や対話の中で構築されています。
僕は都立の八王子東高校を卒業してから三年間、ひきこもりを経験しています。
その後、より個性的な人間と競い合いたい、と思い日本大学芸術学部(日芸)に入学しました。
修士時代には学問上の行き詰まりを打開するために、バックパッカーとしてチベットやインドを旅しました。
ひきこもり・日芸・バックパッカーという三大要素は、今の僕の思索と活動の在り方を決定づけるものです。
僕は自分自身を学術研究者(学者)ではなく、表現活動者(批評家・評論家)として考えています。
僕自身が物書きとして書き表したテクスト(作品・論文)を用い、世界に現れ、他者の応答を求めたいと思います。
公的な所属はありません。求職中です。現在は博士論文の指導教授の一人である東京女子大学の森一郎先生にお世話になっています。僕は日芸で過ごした10年間で、多くの刺激的な仲間や素晴らしい先生方に恵まれました。彼らの期待に応え、その恩に報いるためにも、精神的にも経済的にも独り立ちしたいと考えています。
人間が「人間として」生きるためには、「生きる意味」が必要です。なぜなら私たちはヒトという種の単なる一個体ではなく、かけがえのない自分自身の生を生きる個人であり、自ら考える(嫌でも考えてしまう)存在だからです。
生きることは人間が思考や活動をする上での基盤となります。生命は人間の基本的な条件であり、その重要性は疑い得ません。しかし人間は他のすべての動物のように、単なる種ではありません。思考し、実存する存在者です。
他の動物(種)が物を食べるのと同じように、表現されたテクストや世の中の事象をただむさぼり喰らい、「消費する(テクスト消費)」だけでは、人間は人間として「生きる意味」を持ち得ず、その「生命の空虚さ」に耐えられないのです。
僕は現代を「消費」の側面のみが異常に膨れあがった「消費社会」だと考えています。
生きている実感(リアリティ)の無さ、「生命の空虚さ」から逃れたい。「生きる意味」が見つからないがゆえに、私たちは終わりのない消費に駆り立てられ、消費するための刺激物(ドラッグ)を求め、餓鬼のように徘徊します。
私たちは多くの文脈で「消費者」として一面的に規定されています。「高度消費社会」を形成する種(ユニット・個体)の一つとして扱われています。
それは私たちが豊かな在り方ができない、ということでは決してありません。私たちが貧しい在り方しかできず、刺激(消費対象物)に飢えているのは、消費以外の豊かな在り方を十分に経験しておらず、生きる意味を手に入れるための他の方法を見つけられないでいるからなのです。
僕もまたかつて閉じたひきこもりでした。しかし今は開かれた表現活動者です。
人間は「仕事」や「活動(対話)」を行うことによって、唯一無二の個人として、すなわち一回限りの有限な生を生きる人間(実存する共同存在者)として、自分自身がこの世界で「生きる意味」と悦びを獲得することができます。
「仕事」は生まれてはまた消えていく自然環境とは一線を画した、人間が残したいと思う「物の世界」を構築する行為です。人間世界に新たな人工物(世界の物)を付け加え、人間世界を豊かに構築する行為です。しかし「対話」や「活動」は、永続的で耐久性を持つ「仕事」とは異なるかたちで、人間に「生きる意味」や「悦び」をもたらします。
私たちの表現行為は、他者に見られ、聞かれ、応答されることで、新たなはじまりを生み出す表現活動となります。
他者との間で直接的かつ躍動的に交わされる「対話」や「活動」は、私たちが他者と共有する「共同世界(common world)」を舞台にして行われます。私たち自身によって表現されたテクストは、この開かれた「現れの場」において、孤独な個人が共に関わることを可能にさせる介在物(共有物・共同世界と物の世界を構築する人工物)となるのです。
表現行為によって生み出されたテクストは、人間と人間を繋ぐ橋です。「対話」や「活動」はこの人間の共同世界に、新たなはじまりという「奇跡」を起こします。僕は実際にそのような人の世の「奇跡」を数多く経験してきました。
僕はかつて生きる意味に飢えた孤独な人間でした。人は自ら考え「魂の世話」を行うことで、「生きる意味」に満ちた豊かな生を生きられるのです。自分を救うのは自分自身です。人は誰しもが自己変革を行う可能性を秘めています。
すべてのはじまりは「現れ」にあります。開かれた共同世界に現れなければ、、私たちはその存在を認識できません。
その存在(テクスト)が見えなければ、聞こえなければ、それは私たちにとって存在しないに等しいものなのです。
表現されたテクストがあって初めて私たちは共に関わりあうことができます。誰かが表現することによって、現れることによって、すべてははじまります。表現されなければ私たちはお互いの存在を知らず、孤独で空しいままなのです。
僕は多くの先人たちと同様、与えてもらったテクスト(愛)に自分の言葉で応答し、他者と共に悦びをわかちあいたいと思います。僕はこの人間世界に自ら新たなはじまりという「奇跡」を起こすために、表現活動を行っています。
本ウェブサイトや杉浦基の論文や批評等で述べられている「表現」や「現れ」、「消費」や「仕事」や「活動」、「物の世界」や「共同世界(common world)」、「共有物(介在物・媒介)」や「リアリティ」、「複数性(多数性)」や「孤独(loneliness)」といった用語の区別や定義は、『人間の条件』(志水速雄 訳、筑摩書房、1994年)で展開された哲学者のハンナ・アレントの議論(およびその師であるハイデガーのポリス解釈)に負っています。
なお僕の哲学理解は、下で紹介する影響を受けた先生方の講義や書物、彼らとの直接的な対話によって形成されました。僕のアレント理解やハイデガー理解が偏っているとすれば、それは僕が哲学を専攻せず、いまだ彼らの影響下に留まっているためです。しかし当然のことながら、その解釈上の誤りや理解の間違いはすべて僕自身に責があります。
ただし僕はあくまでも芸術学(文学)を専攻した表現活動者です。ハイデガーに代表される近現代ドイツ哲学や、アーレントの思想を専門に研究する学術研究者ではありません。そのため本ウェブサイトでも、特に必要性を感じない限り、敢えて詳細な言及は行っていません。興味のある方は掲載された論文などをご覧下さい。
※渡邊二郎先生は2008年2月12日に亡くなられました。ご冥福をお祈り致します。
森先生が僕にハンナ・アーレントの活動と現れの思想を教えてくれました。歳が比較的近いこともあり、僕は個人的には森さんと呼んでいます。森一郎先生は先日、著書を出版されました。『死と誕生―ハイデガー・九鬼周造・アーレント』(森一郎、東京大学出版会、2008年)です。比較的高価ですが、あっけらかんとした文章で書かれた、とても読み応えのある明るい本です。本サイトの記事などを読んで興味を持たれた方は、お近くの図書館などでも気軽にリクエストしてみてください。

夫馬先生は『風人通信』というウェブサイト(ホームページ)を運営しています。過去の日記には、杉浦基も時々、匿名の大学院生Sとして出てきます。宜しければご覧下さい。