HOME » 批評・レビュー » 本・マンガ・書籍 » 香田証生さんはなぜ殺されたのか
読み手を選ぶ本という意味で、評価は★2つ。
この本はすべての「旅人」のための本である。愛すべき不器用な「バカ」のための本である。
僕もまたかつて香田証生と同じく「自分探し」の旅に出た「旅人」だった。彼以上の「バカ」だった。著者の問いかけに自分自身の言葉で真摯に応答できるのは、自分と世界にリアリティを取り戻すために行動する「旅人」だけである。
僕はあらゆる意味で香田証生は「バカ」だったと思う。タイトルに謳われている「香田証生さんはなぜ殺されたのか」という問いかけに対し、僕は「『バカ』だからだよ」と応える。僕にはそれ以外に応えようがない。なぜなら僕もまた「バカ」だったからだ。香田証生と同じ「バカ」だったからだ。
香田証生がイラクで殺され、僕が奥チベットから生きて帰ってこられたのは偶然に過ぎない。
僕はかつてバックパッカーだった。生まれて初めての旅で、東南アジア→中国雲南・四川→奥チベット→ネパール・インドを旅してきた。幸運が重なり、仲間に恵まれ、体力とお金と言葉に不自由しなかったからこそ、僕は生きて帰ってこられた。だが全ては偶然だ。香田証生が殺された後、2007年10月にイランで武装組織に拉致された日本人学生がいた。横浜国立大学の4回生だった中村聡志だ。僕は彼のことを知り、その思いを一層強くした。
僕は彼の足跡を報道したニュースを見て、僕より遥かにまともな旅をしていると思った。
知り得た情報から判断するに、中村聡志は着実に現代のバックパッカーの王道、定番の道筋を歩んでいた。彼と同じかそれ以下の旅をしている者は数多い。しかしそんな彼でさえ、イランで拉致されて、帰国までに長い歳月を要したのだ。
彼らと僕を分かつ者は、ある意味で何もない。同様に外国を旅していて、またもっと危険な状況を旅していて、偶然にも何の被害も受けず旅をしている者はたくさんいる。旅をツアーと履き違えて、のうのうと過ごしている者がいる。そして少数の失踪者や、ある程度の深刻な被害を被る者がいる。
これはある意味で確率論的な話でしかない。すなわち最終的には運が良いか悪いか、というだけの問題なのだ。
僕は2003年に相棒Aを含む仲間4人と西チベットを旅した。西チベットにはチベット仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、ボン教共通の西チベットの聖地がある。シヴァ神が住むという聖山カイラス、ガンジーの灰がまかれた聖なる湖マナサロワール、修行の聖地ティルタブリである。さらには幻の王朝グゲやラダックの遺跡の数々が眠っているのだ。
僕らはラサを出発する前、既に日本人が3人失踪していることを知っていた。彼ら日本人失踪者たちは僕らと同じく西チベットを目指し、パーティを組んでラサ(チベットの首都)を旅立った後、行方知れずとなったのだ。
実際、僕らが彼らと同じく行方知れずになっていたとしても、まったく不思議ではなかった。僕らは西チベットに密航して行ったからだ。現地で公安に出頭するまで、僕らはそこに存在していないはずの人間である。国家権力によって全く保護されていない、(=むき出しの暴力の脅威にさらされている)不可視の存在なのだ。
僕らの頼りは、仲間Pが日本から持っていった旅行人ウルトラガイド 西チベット』(高木辛哉、旅行人、2000年。2003年当時でも状況が激変しており不正確だった。しかし実質的にこれ以上のガイドは地球上に存在しない)だった。また仲間Jが操る雲南訛りの、しかし現地人と見まごうばかりの中国語だった。そして僕らはみな若く、体力があり、十分な資金も持っていたのだ。
僕らには体力(暴力)と金(経済力)のハードパワー、そして情報と言語(文化力)というソフトパワーの両方の「パワー」が揃っていた。それらがうまく絡み合ったために、僕らはきちんと全員、生きて帰って来られた。
しかし僕らは旅の途中、いくつもの深刻な事故や不慮の死を見てきた。川には土左衛門(水死体)が浮かび、バスは転げ落ち、独り荒野に取り残される恐怖を感じながら用を足す。死は当たり前のように道ばたに転がっている。本当にバカみたいなことで人は死ぬ。自らのパワーを過信することほど愚かなことはない。どんなにパワーを持っていたとしても、死ぬときは死ぬ。その単純な事実を理解できない人間が旅における本当のバカなのだ。
旅から戻れたのは偶然に過ぎない、という僕の思いは、ある種、危険な状況から戻ってきた経験がある旅人(バックパッカー)であるならば、誰もが感じるものではないだろうか。また現にいまそのような危険な地域を旅している者ならば、如実に感じているはずだ。しくじったら死ぬ。本当に死んでしまう。ふざけたことしたらぶっ殺すぞ!と。
特に日々の生活で日常世界のリアリティを無くしている浮ついた者たちにとって、ふだん住み慣れた日本の環境以外は全て危険な場所である。本当は安心で安全なリスクの無い場所など地球上のどこにもない。でもそこは完全な敵地。決まり切った私たちの常識が通用するホームではなく、わかりやすいアウェーである。
ささいな誤解で死ぬ危険性は飛躍的に高まる。何より常識が違う。言葉が違う。意味や意図するところがまるで違うのだ。思いこみで行動するほど危険なことはない。
少なくとも海外初経験だった僕は、初心者向けのタイやカンボジアでも、騙されまくっていた僕が奥チベットを含む半年間のバックパック旅行から戻ってこられたのはただただ幸運であり、仲間に恵まれたからだ。
香田証生が殺されたとき、僕は恐ろしいほどのショックを受けた。首を切られる映像を見て、総毛立った。そして脅迫ビデオで彼が話した言葉を聞き、涙を流した。どれほど日本に帰りたかっただろう。愛する家族のもとに戻りたかっただろう。彼の代わりに僕が殺されていても、何の不思議も無かった。
香田証生はかつての自分の姿を映す鏡である。彼の姿にはバックパッカーの原型がある。
僕のこの感情の動きは、決して哀れみや同情ではないと思う。あの衝撃。それは旅する者ならば、誰もが思うものだ(本当はそんなことはありえないが)。その感情は香田証生と同じことが我が身に起きたとしても決しておかしくはなかった、という思いが引き起こすものだからだ。
自分が生きる意味と世界のリアリティ(実感)を求めて足掻く者、香田証生と同じく旅に出た者、自ら主体的に自分自身の生を生きたいと願う者。彼らは誰もが「旅人」である。
僕は日本を発つ前、当時、紛争まっただ中だったアフガニスタンに行きたいと思っていた。本当にどうしょうもないバカだった。完全なバカだった。そして何も分かっていない「バカ」だったからこそ、僕は「自分探し」の旅に出たのだ。
むろん「旅人」はバックパッカーのみを意味するものではない。自分と世界にリアリティを取り戻すために行動する者、通過儀礼に挑む者は、誰もが「自分探し」の不器用で「バカ」な「旅人」なのだ。
著者の下川裕治は、とても有名な旅人(バックパッカー)だ。有名なのは『12万円で世界を歩く』(下川裕治、朝日新聞社、1997)だが、近刊の『日本を降りる若者たち』(下川裕治、講談社、2007年)もまた素晴らしい仕事であると思う。
だが僕が思うに、下川祐治もまた「バカ」なのだ。だからこそ香田証生の足跡を追う旅に出たのだ。同じ「バカ」だからこそ、自分の内なる衝動に突き動かされて、香田証生の生の在り方を問う旅に出たのだ。
この本は同じ「バカ」なら、生きることに不器用な愛すべき「バカ」なら、涙無くしては読めないものだと思う。一回きりの自分自身の人生を悔いなく歩みたいと思い、何かを掴みたくて旅に出た者ならば、また生きる意味と生のリアリティ(実感)を求め、あがく者ならば、きっと香田証生の不器用な足跡に自らの旅路や生の在り方を重ね合わせることができると思う。
香田証生の足跡を追うこの本からは、何もわからなくてただあがいていた頃の自分の姿が滲んでくる。ここにはかつての自分の姿がある。「同じだ、僕も同じだ。同じなんだ」という思い。そういう思いが僕にはある。だからこそ僕は香田証生のことを思い、彼のために泣けるのだ。
この本は万人にはお薦めできない。「旅人」こそが読むべき本である。またおそらく自分が生きる意味と世界のリアリティ(実感)に対する渇望を共有していなければ、なぜ香田証生が旅に出たのか、そしてなぜ著者の下川裕治が彼の足跡を追ったのか、その根源的な衝動の存在を理解できないと思う。「香田証生さんはなぜ殺されたのか」という問いに、自らの言葉で真摯に応えることはできないと思う。
この本は愛すべき不器用な「バカ」のための本である。いまの人生に満足している人たち、平穏な生活を送る人たち、すなわち「旅」に出る必要がない人たちは、香田証生の不器用な人生に共感することはできない。でもそれは仕方がないことだ。その意味でこの本は読み手を選ぶ。万人にお薦めできるものではない。しかしだからこそ、僕はこの本を強く薦める。これはすべての「旅人」のための本なのだ。
僕がこの本を紹介する際に断っておきたいのは、僕は「旅」を特権化して表象したいというわけではない、ということです。時々、「旅」の経験を絶対的なものとして、万人に普遍化して語る人がいますが、それは大きな間違いです。
たしかに旅は僕個人にとっては重要な契機でした。しかしそれは僕の個人的な問題であって、「旅」そのものはさして特別なことではありません。どこにでもある誰にでも起こりえるありふれた出来事です。ですから他者にとっても同じような意味を持つかどうかは全くわかりません。
それはたとえば一部の韓国の 若者が「軍隊」に行った経験を特別視して語りたがるのと同じことであり、同じく一部の老人が「戦争」や「戦後」の体験を、一部の母親が「出産」や「子育て」の経験を思い入れと共に特権化して語り たがるのと同じです。同じようなことは僕が論文で扱っている、「憲法九条」や「靖国神社」、「韓国人」や「ぷちナショナリスト」にさえ言えることです。
人は個人個人、経験や事象(テクスト)を捉える視点が異なります。世界は同一の側面を2人の人に示しません。解釈は全て異なり、多様なのです。同じ経験や事象を絶賛する人もいれば、傷ついて苦しむ 人もいるのです。
実際、僕は旅する人間の半分はクズ野郎だと思います。現実社会と同じです。傾向としてある程度、言えることはあっても、だからといってそれを全員にあてはめることなどできません。人間はロボットじゃない。社会の単なるユニット、意志を持たない家畜じゃないんです。
第一、日本人がやるお手軽で安全なバックパッカーの「旅」なんかで変わる人はそうそういません。それは僕自身も含めてです。通過儀礼、ある種の出来事の経験(テクストの読み)はただの「きっかけ(契機)」に過ぎないのです。人はテクストを解釈し、考えることで、自ら変わっていくものなのです。人は自分で自分を変えるのです。
人にはそれぞれそういう特別な出来事(テクスト)があるというのは事実です。それは「恋愛」だろうが、「就職」だろうが、「全共闘」だろうが、「軍 隊」だろうが、「ガンダム」だろうが、何でもあり得るわけです。たとえその出来事(テクスト)の経験が他人から見ればバカみたいなことでも、それがその人 にとってとても重要なことだと言うこと。それがその人にとっては決定的なテクストであり、経験であると言うこと。その事実は変わりません。それは誇って良 いことです。
ですが、それを特権化して語ることは話が違います。万人に適用して普遍化して語ることは、それが何であれ、ある種、傲慢なことだと僕は思いま す。