HOME » 批評・レビュー » 思考と活動の道具 » パーカーの万年筆-PARKER SONNET FRANCE
必要とされる場面は限られるので★2つ。
杉浦基が修士論文で日本大学大学院藝術学研究科から湯川制賞を頂いたときの受賞記念品。
主に杉浦基が好きな著者(作家)から、読み終わった本にサインをもらうときに使用。
僕は万年筆を一本持っています。今回は故・渡邊二郎先生との思い出と絡めて、僕にとっての「万年筆の意義」について書こうと思います。【生活の道具】記念すべき初めての記事は、実用性重視のプラグマティストで、なおかつ貧乏な杉浦基にはまったく似つかわしくない【パーカーの万年筆】についてです。
僕の万年筆はパーカーの「PARKER SONNET FRANCE A.11」というものです。パーカーにもいろいろ製品ラインがあるようで、その中の「ソネット」というシリーズの品です。色はゴールドで、フランス製らしいです。らしいというのは僕が直接、買った物ではないため、どんな品なのか所有して数年が経ついまでも良くわからないからです。
この万年筆は僕が修士論文で日本大学大学院藝術学研究科(日本大学芸術学部の大学院)から湯川制賞という内輪の賞を頂いたときに、記念品としてもらったものです。昔、調べてみたところ、軽く1万円はするみたいです。しかし僕の名前が彫り込まれているので売り物にはなりません。パーカーとしては中堅ラインの品らしいのですが、僕にとって分不相応な高級品であることに変わりはありません。
記念品ということもあるのでしょうが、型は変わらずともデザインは頻繁に変わるらしく、ネット上では同じ物が見つけられませんでした。このページのトップの写真は、もっとも見た目が似ていると思われた「パーカー ソネット プレミアム ゴールドGT」という長い名前の万年筆です。希望小売価格で、31,500円(税込)もしますね。写真のお店だと送料別で、22,300円(税込)みたいですが、貧しい僕にとってはとんでもない値段です。
先日、図書館で「Lapita(ラピタ)」という雑誌の2008年09月号を見たんですが、その特集が「男・40を越えて書く文字に責任ありー“美しい文字”を紡ぎ出す筆記具」でした。中身はカスカスのカタログ誌です。どうやら自称「モノにこだわる大人のための少年誌」なんだそうですが、こんな80年代~バブル期の商法がまだ続いてるんですねぇ。いまだにそれで行けてしまうという、そっちの“古いモノ(システム・常識)”へのこだわりもそうとうなものです。
その特集でなぜかリリー・フランキーが出てきたんですが、彼が“ペリカン(Pelikan)”の万年筆を使っている、ってのには驚きました。『東京タワー』では公園の便所にかけこんで用を足していたのに、凄まじい出世です。見習いたいものです。
もちろん万年筆という対象(テクスト)をいかに捉えるか(読むか)は人それぞれの考えによります。ですが少なくとも僕は、ふだんの日常生活で万年筆を使うようなお洒落なことはしていません(“お洒落な”という表現に既に僕の「読み」が入っています。僕なりの本質規定がそこに既に現れてしまっているんですね)。
僕が日常生活で使うのは、もっぱらパイロット(Pilot)の「ハイテックCコレト(HI-TEC C coleto)」や、「フィード(FEED)GP4極細」といった多色ボールペンです。細かい字を書くのが好きなので、常に0.3~0.5を愛用しています(これら多色ペンについては、メモのとり方と共に別であらためて書きたいと思っています)。
僕は実用の道具はあくまでも使用対象物としての機能で選んでいます。使い勝手の良いものが好きなので、日常生活ではほとんど万年筆は使いません。メモと多色ペンは左の尻ポケットに常に携帯していますが、万年筆はというと鞄の中でさえほとんど持ち歩きません。なぜなら無くすのが恐いからです。
多色ペンであれば、たとえ無くしたとしても胸が(あまり)痛みません。出費もそれほどかかりませんし(たとえば「フィードGP4極細」なら税込367円)、おかげで常に複数、鞄の中にしこんでおくことができます。細かい字も書けるし、いつでもどこでも手に入ります。利便性を考えれば、万年筆よりも多色ペンの方が圧倒的に有利なのです。
このように僕の紙とペンに対する嗜好性はあくまでもプラグマティック(実用的)なものですが、これは僕が物を書く道具を、あくまで単純な使用対象物として捉えているからです。趣味性や物としての美観や書き心地(これもある意味で有用性なのだが)を二の次にしているからです。たぶん車を買うとしたら、僕はまっさきに軽自動車やワゴンを検討すると思います。傍目より自分にとっての利便性と有用性を重視するからです。
そのため僕は万年筆に対する思い入れが、ほとんどありませんでした。昔は大学進学や就職の際などに万年筆を送ったそうですが、僕の家にはそういう風習はありませんでしたし、個人的にこだわる要素がほとんど無いと思えたからです。僕は常に原稿をパソコンで売っています。筆記用具としてはワープロさえも使ったことはありません。
ですから僕はこの万年筆をもらったとき、どうせ使わないからと、酔っぱらった勢いで友達にあげようとしたのです。修士課程修了式後の飲み会の時でした。もらってからまだ6時間も経っていません。当時はその金銭的な価値もわかりませんでしたし、うちの大学のことだから、せいぜい3,000円ぐらいの品だろうと高を括っていたのです。
ところがそのとき友だちに「値段の問題(安いと思い込んでる)ではなく、心の問題なんだよ!」と逆にひどく怒られました。「記念の品を何だと思ってるの!?」と。あの時、友達に言われたことは、今だに覚えています。良い思い出です。それから反省して万年筆を大切にするようになったのです。
でもこれは実際、友達の言うとおりで、確かに値段の高い低いはあまり関係ないのです。自分の名前が入ってしまっているということもありますが、こういうものは“記念の品”だからです。だからこそ「記念品として」もらったのですが、当時はそういう当たり前のことがまったくわからない正真正銘のバカでした。今でも僕にはこういうどうしょうもないところが多々あります。
そして万年筆の有用性は、日常の品とはまったく別の所にあるのです。それに気づいたのは友だちの車の契約の時でした。
友だちが車を買ってサインをするとき、相手のディーラーの方は「モンブラン(Montblanc)」のボールペンを取り出しました。モンブランはヨーロッパを代表するドイツの高級筆記具メーカーです。インクを使用する万年筆ではありませんが、これも相当、高価な品です。イギリス(というか実質アメリカ)のパーカーと同じかそれ以上します。ちなみにリリー・フランキーが使っていたペリカンは、同じドイツ内で高級筆記具を売るライバルメーカーです。あちらではペリカンは総合文房具メーカーらしいのですが、高級化路線を突っ走るモンブランと共に、日本では老舗の万年筆メーカーとして知られています。
そのディーラーの方は、「お客様が高価な買い物(=車)をされたときに、契約書にサインするのが100円のボールペンだったら嫌でしょう?」と言われました。僕としては、「100円だろうが1万円だろうが、高い金払って契約するのは同じなんだから、ペンなんてどっちでもいいだろう」と思ってしまいます。でも、どうやら客商売というのはそういうものではないらしいんですね。彼らは物を売ると同時に、相手(顧客)へのサービス(気持ちよさ)を売っているのです。その意味で、顧客の感情を相手にしなければならないので、細かい心配りが必要とされるのです
極度に自己中心的で自分の延長線上でしか他者を捉えられない論理走った僕には、そういう相手(顧客)の微妙な感情の機微がいまいちわかりません。だって僕としては、正直、どっちでもいいからです。「高い金払う=車を手に入れる」という僕にとっての実質的な問題は、100円のペンだろうがモンブランだろうが全く変わらないからです。むしろ小手先の気持ちよさで現実の厳しさを誤魔化したくない、という気持ちになってしまいます。僕の視点から見ると、そういう演出はすべて現実の辛さを覆い隠す、お為ごかしに思えてしまうのです。
でもその時、万年筆がどういう場面で必要とされ、その高級感も含めて有用性を認められているのかがわかったのでした。万年筆は日常生活とは異なる、特殊な状況の時にその真価を発揮していたのです。その有用性は相手に使われるときに具体的に現れていました。
要は万年筆は買った人間が使う道具であるとは限らないのです。万年筆が物を書いてもらう相手のための道具であっても、全く構わないのです。その意味で現代における万年筆とは一般的に、贈ったり、何かを書いてもらうような「相手のためにある道具として」本質的に扱われているのかも知れません。おそらく販売側はそうマーケティングしていることでしょう。もしくは奇しくも先ほどのラピタが示していたように、「ステイタスシンボル(=テクスト消費の道具)として」です。こちらの用途は端から僕は興味がありません。
僕はこのエピソード以降、万年筆をこれまでとは異なった視点から捉えられるようになりました。消費や単なる使用とは異なる、万年筆の新たな「読み(本質)」を知ったのです。そしてその観点から捉えれば、高級な万年筆は十分に重要な役割を果たし、実用の品として、僕たちの仕事の現場で有用性を発揮することがわかりました。これが僕が手に入れた万年筆の本質です。万年筆とは相手のための道具、僕の中で具体的には、本にサインなどをしてもらうときに用いる使ってもらう道具なのです。
僕は身近にいる好きな人の本を読んだときには、読み終わった後でその本にサインをもらうことにしています。ところがいまのところこの万年筆でサインをしてもらった人は、亡くなられた渡邊二郎先生ただ一人です。他の方々にも何度か署名してもらうチャンスがあったのですが、結局、いまのところ渡邊先生だけになっています。
たとえば僕は夫馬基彦先生に、『按摩西遊記』(夫馬基彦、講談社、2006年)と『風の塔』(夫馬基彦、講談社、1991年)にサインをしてもらいましたが、先生は万年筆のインクで文字が汚れるのを嫌われて、自分のサインペンでサインをされました(特別な「はんこ」付き)。あれからもうすでに2年近く経過しています。場所は新宿の中村屋でした。インド・カレーが美味しかった。
また実存思想協会で酒井潔さんに『自我の哲学史』(講談社、2005年)にサインをもらったときにも、日本マンガ学会で呉智英さんに『現代マンガの全体像』(双葉社、1997年)や『犬儒派だもの』(双葉社、2006年)にサインをもらったときにも、何かが原因でこのペンでサインをもらうのを失敗しました。
僕は読み終わってからサインをもらう主義だったため、結局、渡邊先生にサインしてもらったのは、『芸術の哲学』(渡辺二郎、筑摩書房、1998年)と『歴史の哲学―現代の思想的状況』(渡辺二郎、講談社、1999年)の2冊のみとなってしまいました。ご病気を発見されたちょうどその夏に読み終わった『構造と解釈』(渡邊二郎、筑摩書房、1994年)や、僕の大好きな『ニヒリズム―内面性の現象学』(渡邊二郎、東京大学出版会、1975年)にサインをいただけなかったのは、重ね重ね残念です。
僕は博士課程修了まで渡邊先生に見てもらうつもりでいました。渡邊先生も留学前、「僕はそう簡単に死にませんから大丈夫ですよ」と仰られてました。こんなことになるとは全く思ってもみませんでした。完全に油断して余裕をこいていたのです。だからこそ安心して韓国留学にも出たのです。もう少し真剣に生きていれば、少なくとも遅読の僕がもっと早く読み終わっていれば、渡邊先生への接し方もより良く変わっていたかも知れません。
僕はあくまでも実用性重視のため、だからといって過度にこの万年筆を大切にするわけでもないのですが、それでもこれらのエピソードから、この万年筆はいくつもの意味で忘れられない思い出の品、そして実用の品になりました。
それ以後、僕はいざというときに使うため、できるだけ万年筆はこまめに手入れをするようにしています。具体的にはずっと使っていないとインクが固まって書けなくなってしまうので、適度に使ってあげています。しかし粗忽者のため、何度か書けなくしてしまいました。そこで僕が最初のメンテナンスの際に参考にしたのが次のサイトです。
ここに書いてあるメンテナンス方法そのものは、実際にやってみると凄く簡単です。とりあえず分解した後、「錆びたりしないかなぁ」などといらぬ心配をしながら(実際には大丈夫でした。ペン先には18Kと書いてあるのでおそらく18金です。錆びません)、恐る恐る水道水を入れたコップにペン先をつけてみます。すると驚いたことに乾かした後、万年筆はすぐに元の滑らかな書き味を取り戻したのです。分解して水につけ、乾かして元通りに組み立てるまでおよそ30分しかかかっていませんでした。すぐに元通りです。
僕はいつの日か自分で本を出したときに、この万年筆で相手(読者)のためにサインをしたいと思っています。万年筆は「相手に書いてもらうための道具」だけではなく、自分が「相手に礼儀を示すための道具」でもあるだろうと思うからです。もちろんその結果、相手への配慮から夫馬先生のようにサインペンに移行することもあるでしょう(夫馬先生の場合はさらに、「はんこ」と朱肉まで用意してくれていました。ありがとうございます)。でもこの道具が僕自身のためというよりは、「相手のための道具」であることには変わりがないのです。少なくともいまのところ僕にとっての万年筆の本質規定は、「相手のための道具」です。
その時が来るまで適度に使ってあげながら、出番を取っておくことにします。いまから愉しみです。それでは失礼します。杉浦基でした。