HOME » 論文一覧 » 『表現者としての読者』 » 嫌韓流とナショナリズム
「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、「つくる会」*1)が結成されたのが1996年。この「つくる会」の運動に初期メンバーの一人として参加したマンガ家の小林よしのりが、『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』(幻冬舎、1998年。以下、『戦争論1』*2)の第1巻を描きおろしたのが1998年である。以来10年、イラク戦争や北朝鮮問題といった世界情勢の流れもあって、日本では保守・右傾化の一連の動きが活発となった*3。
時として愛国心やナショナリズムが昂揚していると言われる現在、しかしその保守・右傾化の担い手として特化して語られる「『愛国』に走る若者たち」*4とは 、いったい何者なのだろうか? ナショナリスティックな言説に吸い寄せられる「無邪気なプチ(ママ)ナショナリストたち」*5とは、果たしてどのような存在なのか?
本論はこれらの疑問に答えるため、小林の『ゴーマニズム宣言』シリーズ(以下、『ゴー宣』*6)以来、もっとも多くの議論や批判の対象となったマンガ作品*7、『マンガ嫌韓流』(山野車輪、晋遊舎、2005年。以下、『嫌韓流1』)を題材に、読者をある種の表現者として捉える観点から、この「あからさまな排外主義的言説を支持する」*8(とされる)読者の生の在り方を明らかにするものである。
本論はその議論の根底に、読者は表現者である、という読者についての一つの見方(解釈)を置いている。また本論は『嫌韓流1』を、現代における読み手から書き手、書き手から読み手への重層的で双方向的な移行を象徴する作品(テクスト*9)として位置づけている。
本論では議論の範囲を明確にするため、論ずる対象を「右傾化」*10している(とされる)若者全体ではなく、『嫌韓流1』の読者(および作者である山野車輪)に限定している。またその特徴を明確にするために、過去の『ゴー宣』や『戦争論1』、及びそれにまつわる言説と、その読者(および作者である小林よしのり)を比較対象として設定している。むろん若者であれ読者であれどのように括ろうと、集団内部の個々人の価値観や行動様式を一元化して語ることは不可能であり*11、それは私たちが人間であると言う点ですべて同一でありながら、だれ一人として、過去や現在や未来に生きる他人と決して同一ではないことからも明らかである。そのため本論でも筆者の意識は、集団としての人間ではなく、一回性の生を生き行為し活動する個人に定位している。
しかし本論の試みはある程度まで一般化を可能にするものである。なぜなら実際に、現代において「右傾化」する若者像を語る論者たちの多くは、(必ずしもその説明が適切だとは言い難いとしても)個人的な経験と印象から、『嫌韓流1』の読者層が自分たちとは違う価値観や世界観を持って生きていることを強く意識しているからである*12。また当の読者自身が意識していようといまいと、事実として彼らの日常にはその存在を既存の世代から際立たせて特徴付ける環境的条件が存在している。それこそが(日本においては)2000年代以前の読者がほとんど持ち得ず*13、同時に現代の読者による作品(テクスト)の読み書き*14を決定的に条件づけている、インターネットという特殊な表現空間(表現媒体)の日常的な存在と、それによって活性化した彼らの「表現」行為に見いだされる「活動」という要素(活動力)なのである。
本論は自ら同じ時代を生きる読者個人として、議論の対象となる『嫌韓流1』の読者に対する基本的な理解の枠組みを提供することを目指した。それは個人として生きる読者の生の内側から、その実存に基づき、自ら実存しつつ、その生の在り方について考えるためである。
*1「新しい歴史教科書をつくる会」は、「戦後の歴史教育」を「日本人が受けつぐべき文化と伝統を忘れ、日本人の誇りを失わせるもの」として規定している。そのため「つくる会」は、「21世紀に生きる日本の子どもたちのために、新しい歴史教科書をつくり、歴史教育を根本的に立て直すこと」を目的に、一連の社会運動を行った(『新しい歴史教科書をつくる会』ホームページより抜粋「新しい歴史教科書をつくる会_主張!」http://www.tsukurukai.com/02_about_us/01_opinion.html)。なお小林よしのりをはじめとして初期メンバーの多くが運動を離れているが、2008年現在も「つくる会」の運動そのものは継続中である。
*2世代を超えて大きな反響・論争を呼んだ『戦争論』第1巻は「49刷を重ね、3までのシリーズ累計は160万部」を超えている(小林よしのり『ゴー宣・暫1』、小学館、2007年、p19)。当時、『戦争論』の影響と反響がいかに大きかったかについては、『戦争論』出版の一年後に出された総合的な反論集『戦争論妄想論』(宮台真司・姜尚中 ほか、教育史料出版会、1999年。以下、『妄想論』)の編著者である教育学者の梅野正信と、フリーライターの沢田竜夫が、その序文にあたる「はじめに―『戦争論現象』とは何だったのか」の中で、「『戦争論』(小林よしのり著・幻冬舎)が発刊されたのは、一九九八年七月のことだ。以来、約一年にわたって、この国は“戦争”をめぐって揺れつづけ、気がついたら、話は“過去の戦争”の評価から、“将来の戦争”に向けた備えをめぐる心構えに及び、あたかも、戦争と平和の価値転換を迫るかのような議論にまで進んでしまっていた」(『妄想論』、p3)と述べていることからも明らかである。
*3後述するが、この保守・右傾化の流れとされるものは個々の論者によって捉えているものが異なり、その実態については議論の余地が多くある。
*4真鍋弘樹 記者「特集 愛国を歩く(上)」『朝日新聞』2006年8月22日付朝刊。
*5香山リカ『ぷちナショナリズム症候群―若者たちのニッポン主義』中央公論新社、2002年、p8。以下、『ぷち』。
*6小林よしのりが描く『ゴーマニズム宣言』シリーズは、1992年の連載開始以来、作品タイトルや、掲載する雑誌、発表媒体、単行本の出版社等をたびたび変えている(2008年6月現在も小学館『SAPIO』誌上で継続して連載中)。そのため本論では、描き下ろしや番外編等も含めたシリーズ総体として表す際には『ゴー宣』と略記し、個別の単行本に関しては、巻数またはタイトルによって表すこととする。
*7「作品(言説)」とは、それぞれ固有の表現形式(様式、ジャンル。スコールズによればジャンルとは、「関連する一群のテクストから推定されるコードのネットワーク」のことである《『読み方』、p8》)に従って構築されたテクストの一種であり、特定の言語のコード(記号・符号の体系)を持っている。すなわちマンガ作品とは、マンガのコードに則って構築された一つの言説(テクスト)なのである。
*8中西新太郎「開花する『Jナショナリズム』」『世界』2006年2月号、岩波書店、p104。ただし本論でも見ていくように、『嫌韓流1』の読者がそのまま作品およびその主張内容を支持しているかと言えば、それは極めて疑わしいと言わざるを得ない。
*9本論における文学理論の諸々の概念は、英文学者であり、教育者であるロバート・スコールズの議論に多くを負っている。詳しくは『テクストの読み方と教え方―ヘミングウェイ、SF、現代思想』(ロバート・スコールズ、折島正司 訳、岩波書店、1987年。以下『読み方』)を参照のこと。本論では「テクスト(texts)」を、構成(構築)され、表現(提示)されたものとして定義する。そしてテクストを作家性の強い「作品」や、論者が構築した「言説」と区別し、より幅広い意味で用いることとする。テクストは意識化されにくい複数の重層的なコード(ルール、暗号。表現行為を行う際に用いられる記号・符号の体系とその規則)に則って構築されており、それゆえテクストとコードは互いに切り離すことができない関係にある。テクストはすべて「解釈のためのなんらかのコードの中で、記号として働くからこそ意味をもっている」(『読み方』、p8)のであり、「コードがなければテクストを書くことも、解釈することもできず、テクストに意味を伝える能力を与えているコードを捨てされば、意味も同時に失われてしまう」のである(『読み方』、p260)。
*10現代の日本における「右傾化」をいかに定義するかは、多くの議論の余地がある。たとえば社会学者の鈴木謙介は「若い世代が『右傾化』しているという議論」が、「かなり曖昧な、印象に基づいた議論」であることを指摘しており、複数の異なる調査主体によるデータをもとに「こうしたデータを眺める限り、若者の『右傾化』は杞憂に過ぎない」と結論づけている(鈴木謙介「若者は『右傾化』しているか」『世界』2005年7月号《2005a》、岩波書店、p154-156)。むろん同じ事象を他の角度から切り取ることは十分に可能であり、それは『ゴー宣』を批判してきた既存の党派的な論者のみならず、鈴木と同じく若い世代の論客である萱野稔人が、「不安定な雇用状況や格差によって実際に脱アイデンティティ的な状況におかれた若者たちがナショナリズムに傾斜する現実」を積極的に問題視していることからも明らかである(萱野稔人「『承認格差』を生きる若者たち―なぜ年長世代と話がつうじないのか」『論座』2007年7月号、朝日新聞社、p61)。
*11本論で取り上げた読者という対象設定についても、『ゴー宣』(や『戦争論1』)と『嫌韓流1』を共に批判した社会学者の中西新太郎は、「『嫌韓流』の読者をもっぱら若年層に限定してとらえることにも留保が必要であろう」と指摘し、「マンガという表現形式が通用する読者層は四〇代まで及んでおり、少なくとも三〇代ホワイトカラーはすべて読者層に想定しうる」とその範囲の広さを述べている(中西、2006、p105)。全ての集団は独立した個人によって構成されているため、どのような理解の枠組みや行動モデルを提示したとしても、必ず例外は現れてくる。ただしだからといってそこで一般化を放棄するか否かは、議論の目的や性質、および究極的には個々の論者の意志と判断に任せられているのである。
*12たとえば中西新太郎はその議論の冒頭、「これらの漠とした疑問の底には、今日の青年層にたいする」懸念、すなわち「その心情や振る舞いの『わからなさ』に対する不安と不満が潜んでいる」として、『嫌韓流1』の読者を(中西が自認するような)「世界的視野を持たず持とうとしないアンファン・テリブル(恐るべき子どもたち)」として規定している(中西、2006、p104)。中西は『嫌韓流1』の読者の背後に「戦後日本のナショナリズム感情とは異質で、それゆえに既存の批判が通用しないナショナリズム」の存在を危惧している。また香山リカは、コラムニストのナンシー関の意見を受けて、ワールドカップに「感動したり熱狂したりする」若者たちを「批判精神も自己の相対化も放棄して、ただ目の前で起きていることに夢中になる」(少なくともそのようにしか香山には見えない)「とても不気味に見え」る存在、自らとは異なる共感不可能な存在として位置づけている(『ぷち』、p171)。
*13日本において常時接続のインターネット回線が普及したのは2001年である。総務省の「情報通信白書」平成13年度版は2001年を「ブロードバンド元年」と位置づけているが、この年にADSL回線は1万回線台から、一気に100万回線を突破している(日本国総務省「情報通信白書平成13年版 PDF版 はじめに」情報通信統計データベースhttp://www.johotsusintokei.soumu.go.jp/whitepaper/ja/h13/pdf/hajimeni.pdf)。
*14ロバート・スコールズは、人がテクストを扱う際に用いる「テクスト能力」、すなわちメディア論で言うメディア・リテラシー(読み書き能力)を、「読むこと(reading)」、「解釈(interpretation)」、そして「批評(criticism)」(本論に沿って言い換えるならば、書くこと)、という「三つの互いに関連した技能」に分けて説明している(『読み方』、p36)。本論ではこれらの用語をスコールズの用法に則して用いることとする。
NEXT >> マンガ嫌韓流と嫌韓流現象
実存思想協会発表原稿―目次/参考文献 << BACK