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マンガ嫌韓流と嫌韓流現象

1)『嫌韓流1』と嫌韓流現象

 マンガという題材ゆえに事情に詳しくない方もいることから、まずはじめに本論で取り上げる『嫌韓流1』について、その概要とベストセラー化した経緯について説明することとする。 

1-1)作品の概要とベストセラー化の経緯

 タイトルにも表されているように、『嫌韓流1』とは日本社会における「嫌韓*15」の風潮や現象(すなわち山野の言う「嫌韓流*16」)を主題とするマンガ作品である。作者である山野車輪は、ほぼ素人に近い新人マンガ家であり、『嫌韓流1』は山野がインターネット上で発表していた原稿を元に描き下ろされた自身初の単行本である。そのため『嫌韓流1』は「商品としてのマンガ、という意味ならば、同人誌並み」と言われるほど、多くの欠陥を含んだものであった*17。しかし『嫌韓流1』は「韓国にはもう謝罪も補償も必要ないんだ!!」というキャッチコピーと共に*18、その内容がインターネット上の巨大掲示板サイト『2ちゃんねる*19』や各種ブログで紹介されたことから、主にネットの口コミを介して大きな評判を呼ぶ*20。そしてその結果、『嫌韓流1』はこの手の作品としては異例の、公称発行部数45万部のベストセラーとなった*21。またその後も『嫌韓流』は続編が複数描かれており、2008年6月現在、3巻までのシリーズ累計の発行部数は78万部となっている*22。 

1-2)『嫌韓流1』のストーリー

 『嫌韓流1』のストーリーを概略すると、この作品は受動的で無批判な存在であった主人公が、それまで漠然と正しいと思ってきた韓国や歴史に対する知識や認識を、あるきっかけから能動的に問い直し始めることで物語が始まる。それらの知識は主人公が「学校で習った」ものであり、同時に「マスコミが言っている」がゆえに、「事実」として「信じられ」てきたものである(『嫌韓流1』、p28-29)。むろん実際にはそれらの「事実」(とされるもの)は、特定の観点から構築された一つのテクスト(言説*23)に過ぎないのだが、「イメージ操作が行われている可能性」(『嫌韓流1』、p288)や、「日韓の間に横たわる様々な問題」について、ほとんど何も知らないでいた主人公は、ある種の権威やシステム(言説構造*24)によって保証されたそのテクストの力*25によって言葉を奪われ、日本の植民地支配について在日の友人に批判されても反論できずに黙るほかなかったのである。

 しかし主人公は大学入学を機に、これまで表だって語られてこなかった(とされる)括弧付きの「本当の歴史」(とされるもの)や、マスコミによる印象操作の方法、韓国および在日韓国・朝鮮人社会の実態、彼らが主張する歴史認識の問題点などを能動的に学んでいく。それは山野が「あとがき」において述べるように、ある一個人が「偏らずに様々な情報を吟味して、自分なりの見解を求めて」いく過程そのものを模したものであり(『嫌韓流1』、p274)、ある種の(括弧付きの)「メディア・リテラシー*26」(テクストの読み書き能力)の獲得過程そのものだと言える*27。それは他でもない、作者(描き手)である山野自身が一人のテクストの読み手として辿ってきた道筋を物語上で再現したものなのであり*28、その意味で『嫌韓流1』は個人の成長を再現した成長物語なのである。 

1-3)排外主義と娯楽性

 ここで同時に指摘しておかなければならないのは、『嫌韓流1』が強い排外主義的な要素を持っているという事実である。『嫌韓流1』はその物語の骨格として、主人公側を「日本人として」強く規定し(『嫌韓流1』、p195)、その日本人としての立場から、自らの正しさを全面的に押し出して、対立する論争相手(敵)を打ち負かす、という娯楽性の強い勧善懲悪の構造を組み込んでいる*29。論争相手として設定されているのは、韓国人(および在日韓国・朝鮮人)や「プロ市民*30」たちである。彼らは現代の日韓関係における様々な問題や過去の歴史認識等について、一方的に日本側を批判(非難)し、反省や謝罪を強いてくる理不尽な存在として醜く描かれている。そして主人公たちは学んだ知識の正確性や客観性、論理の正当性を武器に、相手を公開のディベート(討論会)や、個々の対決(対話)の場において、次々に論破していくのである。

 このように『嫌韓流1』には「今まで何度謝罪しても謝罪を求めてくるような相手を負かすという展開」ゆえの、ある種の「カタルシス」が存在している*31。そして『嫌韓流1』は、その題材の政治性と、排外主義的で娯楽性の強い物語のみが際立つゆえに、多くの論者から韓国に対する違和感や嫌悪感を率直に表現した「政治的」なマンガ作品としてのみ読み解かれ、政治(党派)的に利用されているのである*32。 


*15「嫌韓」という言葉をいかに定義するかは、論者の立場や議論の目的、注目するポイントによって異なる。しかしそれは基本的には文字通り「韓国を嫌う」感情や態度のことを指している。日本のインターネットにおいては、嫌韓の空気がきわめて強く、この点について『嫌韓流1』にもコラムを載せた民俗学者の大月隆寛は、「嫌韓、というのは、ネット世論においてはデフォルトのモードだった経緯があります」と述べ、「昨今『ネット右翼』などと一部で言われるような現れというのも、ネット空間の成立当初からある種つきもののようなものでした」と説明している(大月隆寛「ネット世論と『嫌韓』の歴史」『別冊宝島 マンガ嫌韓流の真実!〈韓国/半島タブー〉超入門』宝島社、2005年《2005a》、p30)。

*16山野車輪は「嫌韓流」を「マスコミが隠しているもう一つの韓流」として説明しており、「現在マスコミでは『韓流』などと友好を演出しているが 水面下では韓国を嫌う日本人が急増している」と述べている(『嫌韓流1』、p271)。さらに山野は『マンガ嫌韓流2』(晋遊舎、2006年。以下『嫌韓流2』)の中で、「まず韓流ブームがあり それを極端な形で否定する存在としてこの本が出現した」という見方に対し、「この漫画はいわゆる韓流ブームといわれるものが表面化する以前から描き始めたものであり 出版の経緯についても韓国での異常な反日デモがきっかけとなって出版の話をいただいたのであって いわゆる韓流ブームとは関係ない」と反論している(『嫌韓流2』、p255)。この山野の見解は前述の大月の議論(2005a)などによっても傍証される。

*17大月隆寛「ベストセラー漫画『嫌韓流』は『ゴー宣』よりスゴイんです」『諸君!』2005年10月号(2005b)、文藝春秋、p170。『嫌韓流1』のマンガとしての表現の稚拙さ、技術、構成の至らなさ、商品としての不完全さについては、大月の他にも多くの論者(および読者)が共通して指摘する事実である。この点に関しては、作者である山野車輪自身も自覚しており、「『こんなに絵が下手くそだったとは思っていなかった』とも言われました」とコメントしている(「山野車輪ロングインタビュー」『公式ガイド』、p5-14)。

*18『嫌韓流1』の表紙より。『嫌韓流1』の表紙やカバーにはこれ以外にも「韓国はどうして日本の領土、竹島を侵略するの?」「知れば知るほど嫌いになる国 それが韓国なんだ……」といった刺激的なコピーが踊っている。

*192ちゃんねるは、1999年に管理人である西村博之(ネット上では主にハンドルネームの「ひろゆき」と呼ばれる)が開設した日本最大の匿名掲示板サイトである(http://www.2ch.net/)。日本広告主協会 Web広告研究会が2005年11月に発表した「消費者メディア市場規模調査」によれば、2ちゃんねるの2005年9月時点での利用者・訪問者数はおよそ990万人(http://www.wab.ne.jp/pdf/2005112802.pdf)。また主要な「ブログやSNSといった個人が情報発信することのできるサイト(以下CGM Consumer Generated Media)」の利用者・訪問者数の総計は、「2005年9月時点で2953万人」であり、2ちゃんねるだけでCGM総利用者・訪問者数のおよそ三分の一を占めていることがわかる。これらの事実は、特殊な表現媒体(掲示板、CGM)としての2ちゃんねるの存在感の大きさと、ネット上での潜在的な影響力の大きさを物語るものである。

*20大手ネット書店Amazon.co.jpでは『嫌韓流』の発売前に予約販売を行ったが、『嫌韓流』はその予約数だけで和書総合売り上げランキング1位(一般書籍扱い)となり、一時期、入手困難な状況となった。大月隆寛によれば「初版は三万五千部」であり、「八月二十日過ぎの段階で」発行部数が「すでに二十万部を超え」ていたことから「発売後ひと月たたずに」劇的に「部数を伸ばした」ことになる(大月、2005b、p164)。

*21続編である『嫌韓流2』に収録された広告では、『嫌韓流1』の部数が45万部を突破したことが謳われている。発売後1ヶ月ほどで20万部以上となった事実と、商品としての性格やその内容、また「今の出版状況を考えれば」、『嫌韓流1』は「まずベストセラーの類と言っていい」ものである(大月、2005b、p164)。

*22「マンガ嫌韓流3特設サイト」http://www.shinyusha.co.jp/kenkanryu/series.htm

*23本論において「言説」とは、ある特定の言語のコードに従って構築された一種のテクストを指す。言説は現実(事物)を元に一定の形式に則ってコード化して表現したものであり、論者である言説生産者は、ジャンルの中の範例に基づいた「特定の種類の言説の製造法」を学び、用いることで、その言語や製造法が持つ権威を引き出し、時には専門家として「法や伝統によって認められ、司法によって規定されまた自発的に容認される権利」すらをも手に入れるのである(『読み方』、p211-212)。

*24本論における「言説構造」とは、「ある特定の対象の意味を保証している」秩序やシステムのネットワークのことである(『読み方』、p218)。特定の言語のコードで書かれたテクスト(言説)は、その「連合関係と統合関係によって」相互に結びついた諸々のテクストが形成するネットワークの中で、一定の位置を占めることによって意味を持ち、人間存在を条件づける世界の物となる(『読み方』、p218)。人間は「体系の中でそれが占める位置を保証する概念がなければ、それを『見る』こと」すら「できない」のであり、その意味で言説構造は「ある種の見かたを可能にする装置のひとつ」であり、同時にものの見方を制限し規定する「概念のシステム」なのだと言える(『読み方』、p222)。すなわち言説構造は「われわれになにが見え、何が見えないかを決定している」道具のひとつなのである(『読み方』、p230)。

*25ロバート・スコールズは、この「テクストの力(テクストの権力:textual power)」について、「われわれの世界を読みかつ書いて」いる力であり、同時にわれわれが「世界を読みかつ書」く力だと述べている(『読み方』、p4-5)。それは端的に言えば「世界を変える力」(『読み方』、p265)であり、そこには「われわれの思考と行動を可能にしつつ制約している諸構造」が存在している(『読み方』、p4)。あるテクストが提示している価値観や信条、メッセージを「受け入れる」とき、「われわれはこのテクストの権力のもとに」あるのであり、「われわれ固有のコードはテクストのコードに従属している」(『読み方』、p98)。われわれが「この権力から逃れ」るためには、「批評的な行為」の実践、すなわちテクストに従属した「読み」から、「そのテクストを支える目に見えないコードの解釈や批評へ」と「進んで」いき、そのテクストとの対立を通して、自らそのテクストの力を用いることができるようになるしかないのである(『読み方』、p98-99)。これこそがリテラシー(読み書き能力)の獲得に他ならない。なお本論では後述する政治的な影響力やソフト・パワーを、このテクストの力を論者の関心や分野によって捉え直したものと位置づけている。

*26本論におけるメディア論の諸概念は、日本におけるこの分野の草分け的存在である、社会学者の鈴木みどりの議論に多くをおっている。詳しくは『メディア・リテラシーを学ぶ人のために』(鈴木みどり 編著、世界思想社、1997年。以下、『学ぶ人』)を参照のこと。
 メディア・リテラシーを如何に定義するかは容易ではない。それはメディア・リテラシーの研究と実践が、世界各地で同時多発的に、かつ分野を横断して学際的に行われている同時代的な試みであり、また定義を行う者の視座や、取り組んでいる関心事(教育、各種研究、理論化、etc...)によって容易に左右されてしまうものだからである。そのためここでは二つの代表的な定義を紹介した上で、筆者自身の定義を述べることとしたい。
 一つ目は教育的な観点からのもので、「世界で最初にメディア・リテラシーを公教育に導入した国として知られるカナダ」において「主導的な役割を果たしてきた市民組織『メディア・リテラシー協会(Association for Media Literacy = AML)』」による定義である(『学ぶ人』、p6)。そこでは「メディア・リテラシーとは、メディアはどのように機能するか、メディアはどのように意味を作りだすか、メディアの企業や産業はどのように組織されているか、メディアは現実をどのように構成するかなどについて、理解と学ぶ楽しみを促進する目的で行う教育的な取り組みである。メディア・リテラシーの目標には、市民が自らメディアを創り出す力の獲得も含まれる」と定義づけられている(『学ぶ人』、p6-7)。
 二つ目はメディアと一対一で向き合う個人の実践的な立場からのもので、1992年の「メディア・リテラシー運動全米指導者会議」において「参加者の議論の末にまとめられた定義である」。そこでは「メディア・リテラシーとは、市民がメディアにアクセスし、分析し、評価し、多様な形態でコミュニケーションを創りだす能力を指す。この力には、文字を中心に考える従来のリテラシー概念を超えて、映像および電子形態のコミュニケーションを理解し、創りだす力も含まれる」と定義されている(『学ぶ人』、p7)。
 本論ではメディア・リテラシーの持つこの二つの側面の内、教育ではなく実践的な側面を重視しており、また個人によるテクストの力の獲得を議論の中心に据えている。そのため本論ではメディア・リテラシーを、「新聞やテレビなどの内容をきちんと読みとりマスメディアの本質や影響について幅広い知識を身につけ、批判的な見方を養い、メディアそのものを創造できる能力」(『スーパー・ニッポニカ 日本大百科全書+国語大辞典 DVD-ROM版』小学館、1998-2003)、すなわち個人として多様なメディア・テクストを能動的に読み解き、批判的に解釈し、おのれの視座から新たに書きだすことのできる、主体的な読み書き能力として定義する。なぜならメディア・リテラシーとは単純な読解の技術などではなく、各個人が生涯をかけて身につけていく能力(技能)であり、個々人が日常的に行っているテクストとの関わりの中で、能動的かつ主体的に獲得していく力だからである。

*27『嫌韓流1』の中では、「極東アジア調査会レポート」の中で、「メディアリテラシー」という用語が使われている(『嫌韓流1』、p232-233)。そこではメディア・リテラシーが「情報の取捨選択と読み取り方」、すなわち情報の読解における技能として解説(定義)されており、「メディアリテラシーは、ネット社会でこそもっとも重要なんだ」と述べられている(『嫌韓流1』、p232)。

*28むろんこれは『嫌韓流1』のストーリーそのものが、山野車輪の実体験を忠実に再現したものという意味ではない。だが作者である山野自身の経験が物語に投影されていることは明らかであり、山野は『嫌韓流』に関するインタビューにおいても、自分がもともとは2ちゃんねるの住人であったことを明かしている(『公式ガイド』、p14)。後述するが、大月隆寛が指摘するように、『嫌韓流1』とはその意味で「『嫌韓』傾向の発信源になったハングル版」や、「活字の蓄積を持っているとおぼしき人たちが確実にいた」、「当時の『議論』『討論』系のサイト」などが「こさえてきた場から出てきた仕事」なのであり、書き手である山野はこのような環境のもとで、「活字由来の情報処理、素材のさばき方」を学習していったのである(大月、2005a、p32-33)。 

*29作者である山野車輪はインタビューの中で、「漫画というエンターテインメント性のある媒体を使う宿命として基本的には勧善懲悪を目指して」描いたと述べている(『公式ガイド』、p12)。山野によれば「このジャンルが成熟していれば勧善懲悪でなくても構わない」のだが、『嫌韓流1』はあくまでも「エポックメイキングの立場にある漫画を目指した作品」なのである(『公式ガイド』、p12)。それゆえ逆に山野は、「今後、このような漫画が複数出てくれば、必然的に進化・深化していき、勧善懲悪で無い方向性を持った、ニュートラルな作品が出てくる」はずだとコメントしている(『公式ガイド』、p12)。

*30『嫌韓流1』では「プロ市民」を、「職業的(プロフェッショナル)市民運動家の略」であり、「一般市民を装い、市民活動と称して政治的・営利的な活動を行う人や団体を揶揄した言い方。活動領域は、平和、護憲、人権、反核、アジアへの謝罪、環境保護など多岐に渡っている」として定義している(『嫌韓流1』、p46)。 

*31鵜野光博「『嫌韓流現象』を読み解く」『別冊正論Extra.02』産経新聞社、2006年、p233。鵜野光博はここでむしろ「この展開にカタルシスを覚えてしまう自分に気づいて、苦笑するという方が、大方の読者にとっては正しいのかもしれない」と述べている(鵜野、2006、p233)。

*32むろん「政治的」な作品という『嫌韓流1』に対する読みが間違っているわけではない。たとえば大月隆寛は『嫌韓流1』を、「タイトルが示すように、内容は、韓国に対する違和感、嫌悪感を素朴に表明するもの」だと紹介しており(大月、2005b、p164)、また社会学者の鈴木謙介も「これは、ネット上ではかなり前から散見されていた『嫌韓』、すなわち韓国嫌いの主張をマンガとしてまとめたものだ」と説明している(鈴木謙介「責任を回避するネットの〈立ち位置遊び〉」『論座』2005年10月号《2005b》、朝日新聞社、p231)。これらの見解が示しているように、たしかに『嫌韓流1』が政治的な要素を持っていることに疑念の余地はなく、本論もまたその事実を否定するものではない。

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