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読み書きする読者

3)読み書きする読者

 上で挙げた3つの理由は、すべて相互に関連し合っている。しかしその根底にあるのは、①メディア・リテラシー(批判的な視座)を備えた少数の知識人と愚鈍な多数のマス、②表現媒体を握る能動的なプロの書き手(表現者)と受動的にテクストを消費するアマの読み手(受容者)、という、極めて一方的で啓蒙的で非対称的な旧来の「作者(表現者)⇒読者(受容者)」の図式である。

 では、どのような理解の枠組みに基づけば、『嫌韓流1』の読者と、その生の在り方を解き明かすことができるのだろうか? 以下では、『嫌韓流1』における読者理解の要点を説明していく。

3-1)メディア・リテラシーの獲得

 第1の要点は、インターネットというメディア(表現媒体)を手に入れた現代の読者を、少なくともある種のメディア・リテラシー(読み書き能力)を備えた存在として認めることである。

 読者によるメディア・リテラシーの獲得を端的に示すものとしては、新聞という媒体に対する読者の信頼感の低下があげられる。インターネット上の巨大掲示板「2ちゃんねる」管理人の西村博之は、2005年に朝日新聞が行ったインタビューの中で、「新聞は絶対的に信頼できるニュースメディア、という幻想が崩れたのは、この4、5年ではないでしょうか」(すなわち2000~2001年から)と述べ、その理由を「インターネットの普及で、今までになかった各新聞を読み比べる体験を、だれもが簡単にできるようになったからです」と指摘している*55。西村によれば「新聞は正確との幻想」は、「一家に一紙しかなかった読者の側が、疑う材料を持っていなかっただけの話」でしかなく、しかもその内の「どれが一番正確に伝えているのか」は、(少なくともほとんどの)「読者にはわからない」(判断不可能)のである(西村、2005)*56

 この点について民俗学者の大月隆寛は、『嫌韓流1』には表向きの「韓国と韓国的なるものへの違和感」とは別に、「マスコミに対する不信感」という「もう一つの主題」があることを指摘している(大月、2005b、p171)。大月によればそれは「大きく言えば『戦後』の言語空間を形成してきたさまざまな要素と、それらをプロモートして広めてきたからくり」に対する不信感の現れとでも言えるものなのであり、それゆえ『嫌韓流1』のベストセラー化とは、「ひとりマスコミに限らず、学校だの知識人だの政治家だの、もろもろ全部ひっくるめて」既存の権威や「正しさ」を担ってきた構造全てに対して、「はっきりと不信任をつきつける感覚がこれまでと違う広がりを伴って共有され始めた」ことを示すものでもあるのである(大月、2005b、p171)*57

3-2)【補足説明】メディア・リテラシー獲得に伴う諸問題

 以下では、補足説明として、現代における読者によるメディア・リテラシーの獲得が、どのような実存的な問題を彼らに引きおこしているかを概説する。

 社会学者の鈴木謙介は、大月と同様、『嫌韓流1』の根底に、読者によるメディア・リテラシー獲得の問題があることを指摘している*58。鈴木はその議論の中で『嫌韓流1』を、経済学者の金子勝とアンドリュー・デヴィットによる『メディア危機』(NHK出版、2005年。以下、『危機』*59)と対比させて語っている。鈴木が言うように、メディア・リテラシーを「メディアのメッセージを『現実そのものではなく、構成されたものであり、論理的に分析できる』ものとして批判的に把握する」能力であると定義するなら、『嫌韓流1』とはまさにその意味での「メディア・リテラシー」の獲得を訴えたものに他ならない*60。すなわち『嫌韓流1』と『危機』とは、「互いの主張」が「真っ向から対立する」ものであるにもかかわらず、「国際問題や政治問題のよりよい解決のために、メディアによる印象操作に対する批判的な視点=『メディア・リテラシー』こそが必要だ、という論理構成」を持つ点で、「ほぼ同型」を為しているのである(鈴木、2005b、p233)*61

 本論はテクストの作り手(表現者)側のイメージ(情報、印象)操作の問題を論じるものではない。そのため言及は最小限に止めるが、これらの事実が意味するところは、「メディアに対する批判が『民族主義』と『民族主義への批判』を同時に呼び出す」という、そのような事態がいま現に個々の読者の中で引きおこされてきている、という事実なのである(鈴木、2005b、p233)。それはすなわち現代に生きる読者(少なくともその一定数)が、「メディアのメッセージにはいつも一定のバイアスがかかっている、という立場に立」つことで、(読みや解釈の複数性のために)逆に自らの判断の根拠を見失い、「『ではいったい何を選べばいいのか』という疑問」に囚われ、「感覚的な首肯感」へ傾斜するか、倫理的な価値判断を停止せざるを得ない袋小路に追いつめられているということを意味するものなのである(鈴木、2005b、p233-234)*62。 

3-3)読みの複数性(多様性)

 第2の要点は、読者による読みの複数性(多様性)を認めることである。いつ如何なる時と場合においても、読者は読みの実践(テクストを読むこと)において、常に能動的な「解釈*63」を行い、その意味を産出している。

 たしかに書かれたテクストには「著者の権威(オーソリティー)と意図(インテンシヨナリティー)」が存在し、それは一定程度、読者の「読む行為を支配」している(『読み方』、p66)。しかし「読まれているテクストが読みを導く」からといって、読者の「読みは一方的にテクストによって操作され」ているわけではない(『読み方』、p18)。読者は読みの実践において、自らがもつ「文化的なコードやジャンルにかんするコード*64」を用いながら、「登場人物や状況、はてはひとつの世界を、並べられたことばから構成している」のであり(『読み方』、p47)、読者は「読むこと」によって「テクストの中のテクスト」(傍点原文。英語原典では斜体。以下、同)を自分で作りだしているのである(『読み方』、p47)*65

 だが既存の議論の多くはこの読者による多様な読みの実態を無視(排除・隠蔽・抑圧)し、『嫌韓流1』が多くの読者によって読まれている理由を、「マンガだから、ネットだから、嫌韓だから」といった作品が持つ(目につきやすい)個別の要素や、歴史的・社会的な状況に還元して安易に論じようとしてきた*66。しかし実際には読み手である読者は、「子どもであれ大人であれ、それぞれがもっている経験やニーズ、異性や自分と異なる人種・民族に対してもっている態度や知識、家族や文化の背景、などのさまざまな要素をもち込みながら」、すなわち複数の重層的なコード(ルール、暗号。表現行為を行う際に用いられる記号・符号の体系とその規則)を用いながら、能動的に「テクストを解釈し、活発(アクティブ)にメディアを読んでいる」(鈴木みどり 編著『メディア・リテラシーを学ぶ人のために』世界思想社、1997年。以下、『学ぶ人』)。すなわち読者は作者によって一方的に読みを操作される受動的な存在などではないのである*67

3-4)表現者としての読者

  第3に、読者が持つ表現者(書き手)としての側面(在り方)を認めることである。読者はテクストに対し「批評*68」という特殊な表現行為を行うことで、自ら新たなテクストを作りだし、物と人間の世界に新たな始まりを生み出す。

 読み手は様々なコードによって重層的に規定されているが、同時にそれらのコードを用いることによってテクストを読み解き、自ら書き出して(再構築して)いる。テクストは「われわれがそれを表現してはじめて明度があがり、輝きを増す」のであり、「読むことと書くことは、お互いによる仕上げが加わってはじめて完成する相補的な行為」である(『読み方』、p35)。

 読み手が批判的な視座を獲得するためには、創造的な「批評」に繋がる「新しいテクストを作りだす」行為、すなわち「テクストのもっている力を解き放ち、それを自分たちで用いる」表現行為が不可欠である(『読み方』、p35)。読み手はこの「批評」という表現行為を行うことで、「すでにテクスト化されたものと闘いつつ、いまだテクスト化されていない世界にテクスト化の領域を押しひろげ」(『読み方』、p101)、ついには「テクストに対立するテクスト」を作りだす(『読み方』、p41)。すなわち読み手はロバート・スコールズの言う「テクスト能力」、鈴木みどりらの言う「メディア・リテラシー(読み書き能力)」を用いることで、テクスト(他者や世界)を読み、解釈するだけでなく、新たなテクストを世界(他者)に向けて表現することが可能となるのである(『読み方』、p41)。その意味で読み手は常に「世界によって読まれかつ書かれている」のであり、また同時に自らも「世界を読みかつ書いて」いる(『読み方』、p4)。

 だがここで重要なのは、新たに「私が書いたもの」(読者が生み出した新しいテクスト)は、「他の人たちに読まれ」見られ聞かれることで、さらには「その人たちの反応が私に知られ」ることで、この世界に全く新しい「テクスト作用を生みだ」すということなのである(『読み方』、p35)。ここに見出されるのは「果てることなく増殖し、変化し、相互作用する、知ることと忘れること、そして対話と相克のネットワーク」、書き出されたテクスト(介在物)によって媒介される人間の複数性(多数性)が生み出した共同世界(common world)の存在である。そして科学技術が可能にしたインターネットという極めて特殊な表現媒体(メディア)は、同時に特殊な現れの場(表現空間)として、すなわち(少なくともインターネットを利用可能な者にとって)万人が参加可能な公的空間として、いまや読者の日常の中に存在しているのである。 


*55西村博之「新聞へ 私の注文」『朝日新聞』2005年10月18日別刷り特集。

*56ここで西村博之は、具体的な事例として「小泉首相の靖国神社参拝をめぐる訴訟」を取り上げており、「同じ判決から出たはずの記事が、見出しも含めてかなり違う」ことを指摘している(西村、2005)。またこれら新聞報道の客観性や中立性の問題については、小林よしのりが「従軍慰安婦」報道を論じる中で先駆的に取り扱った経緯があり、この小林による問題提起が後にこの問題を巡る大論争の引き金となった。詳しくは『新ゴー宣3』における議論を参照のこと。

*57それゆえ大月隆寛は、『嫌韓流1』のベストセラー化、それが示唆する読み手の「マスコミに対する不信感」の共有を、「ここは正しく、メディアリテラシー、と発音してもいい」と述べるのである(大月、2005b、p171)。

*58この点について本論では大月隆寛による議論(大月、2005b)と、鈴木謙介による議論(鈴木、2005b)の二つを取り上げているが、同じ問題意識をその議論の根底に持つ両者の言説はいみじくも、『嫌韓流1』の発売から時を待たずしてほぼ同じ時期に、対立する政治的立場に立つ雑誌、文藝春秋の『諸君!』(2005年10月号)と朝日新聞社の『論座』(2005年10月号)に発表されている。

*59『危機』の中で金子勝らは、「メディア・リテラシーの基本的なメッセージ」を紹介し、これを「人がテレビで見るもの、本、雑誌、新聞などで読むことは、現実そのものではなく、構成されたものであり、論理的に分析できるということ」(傍点原文)として定義している(『危機』、p19)。金子らによれば、人間社会の様々な活動の中でも、特に「政治において」は、「出来事や話を自分自身に有利なように、そして政治的ライバルに対し不利なように描写する」ことが、様々な表現媒体、「とくにマス・メディアを使って」現実に頻繁に行われているのであり、その情報(印象、イメージ)操作の「根底に潜む利害関係を理解し」、その情報の送り手(本論で言うテクストの書き手)側が「利用している手法を見抜く方法」を学ぶこと、すなわち「いま現在行われている報道内容を、批判的思考をもって見たり読んだりするメディア・リテラシー」を獲得することが、「これほど切実な意味を持っている時代はない」のである(『危機』、p17-19)。

*60『嫌韓流1』では「反日マスコミ」(とされるもの)による報道上の情報(印象、イメージ)操作の問題だけでなく、娯楽作品を通じた「イメージ操作」の問題すらもが論じられている。たとえば、その特別編「冬のソナタと韓国ブーム」では、「ブームを作為的に起こしたとしても商売である以上それは構わない」と作り手(メディア)側の恣意性に対する一定の理解が示されながらも、その一方で視聴者(読み手)による「作品そのものを素直に楽しめばいい」という素朴な主張(意見)に対しては、その「態度自体は間違ってはないが/そのためにはイメージ操作が行われている可能性に留意した上でなければならない!!」として、情報(印象、イメージ)操作に対する警鐘が鳴らされているのである(『嫌韓流1』、p287-288)。

*61むろん『嫌韓流1』で展開された論の当否や、その結論である「作品を利用しようとする様々な思惑から切り離して 作品そのものを楽しもう!!」という試みがはたして可能かどうか(『嫌韓流1』、p288)、またそのような見解を打ち出す作者自身の政治的な立場や、イデオロギー性の問題などは、それはそれとして別に論じられなければならない。だが、それら個々の問題を別としても、少なくとも『嫌韓流1』が、ある種の「メディア・リテラシー」の獲得を訴えていることは事実であり、またそうであるからこそ大月隆寛や鈴木謙介は『嫌韓流1』の根底に、読者によるメディア・リテラシー獲得の問題を見出しているのである。

*62それゆえ鈴木謙介は『嫌韓流1』の読者にとって「『嫌韓』とは『サヨク嫌い』という先有傾向を満たすための、存在論的安心を獲得するための一種の娯楽なのではないか」として、「ネットにおける、既存のメディアの虚を暴くという『裏読み』傾向は、『右派』という明確な政治的立場ではなく、『左派の反対』という『政治的主張を利用した立ち位置遊び』」に過ぎないと結論づけている(鈴木、2005b、p234-237)。

*63「解釈(interpretation)」とは、書かれたテクストに何らかの意味を求める読者が、自らが持つ複数の重層的な、かつ互いに異なるコード(解読法)を用い、「ある特定のテクストとより大きな文化的なテクストとの関係を発見」(『読み方』、p56)し、そのテクストから意味を構築(産出)する行為である。
 解釈は個別のテクスト(作品、言説)と、そのテクストによって喚起される、より大きな「文化的なコードとの結びつきを見つける(類似性に気づく)こと」から始まり、読み手である解釈者は「文化的なコードがこの特定のあつかいかたをされてもつ独特の性質を理解する(差異に気づく)こと」で、「このテクストの製作者がそうしたコードにたいしてもっている態度」を理解し、書き手の意図をとらえ、そのテクストの主題や意味を自ら構築(産出)するのである(『読み方』、p56-57)。
 実際、解釈は「読むことの過程」に、意識されないほど「早い段階で入りこ」み、その意味を構築(産出)する(『読み方』、p241)。だが「批評」に繋がる解釈は、むしろ書き手が意図した読みが何らかの要因によって阻害され、読み手がそれまで「ためらいも困難もなくやってのけ」ていた「テクストの中のテクスト」を構築することに失敗することによって生じるのである(『読み方』、p37)。そのとき読み手は「言われていて=読まれること」から、「言われていなくて=解釈されること」、すなわち「暗示だけされて」おり、「ことによると抑圧されているかもしれないこと」へと関心を移行させる(『読み方』、p53)。そこで読み手は「解釈」というテクストに対する新たな読みを行い、いわば作者が意図したテクストとは異なった、「テクストについてのテクスト」(傍点原文。英語原典では斜体。以下、同)を作りだすのである(『読み方』、p41)。

*64「コード(code)」に関しては仮に「表現行為を行う際に用いられる記号・符号の体系とその規則」と定義しておく。なおロバート・スコールズは、コードについて「意味を伝達するために使われる記号システム。記号には、話し言葉によるもののほか、視覚記号、聴覚記号がある」と述べている(『読み解く』、p4)。

*65それゆえ「読むこと」は「たんに技能なのではなく、すくなくともそれと同じ程度には知識」だと言える(『読み方』、p36)。読みは「ある特定のテクストを作りあげるために働いたコードと、このテクストが作りあげられたときの歴史状況について」、読者が持っている「知識にささえられている」のである(『読み方』、p36)。

*66大月隆寛は自らの議論の中で、これらの単純な還元論や反映論とでも言うべき議論を紹介しているが、そこでは『嫌韓流1』のベストセラー化の理由を、(各々の論者にとって理解しやすい)上記の「三つの要素」に求める安易な「説明のパターン」が批判的に解説されている(大月、2005b、p166-168)。なおこれらの安直な議論については、古くは1978年に評論家の中島梓が、「多くの『おとな』たちがマンガについてしゃべろうとするとき、それはひたすら、語り手から見たマンガ」についてでしかなく、それらの議論が客観性や普遍性を持たない「語り手からマンガへの一方的な規定、あるいは思い入れでしかない」ことを批判している(中島梓「おとなはマンガを読まないで」『中央公論』1978年11月号、p250-251)。

*67だがここで同時に注意しておかなければならないのは、既存の党派的な論者に多く見られるように、あらかじめ一定の方向に限定した読みを行うならば、その読みはテクストを自らが期待するような「自身の似姿(シミユラクラム)に変え」るものとなる、ということなのである(『読み方』、p95)。瓜生吉則が指摘しているように、既存の党派的な論者は、個別のマンガ作品の政治的な偏向性や、表現の在り方だけでなく、読み手による「その受容=消費の構造、さらには、読者=消費者の心性を問題に」している(瓜生、2001、p234)。だが論点が先取されたそれらの「問い」の多くは、あらかじめ彼らが予期(予定)していた「解答」へと、テクスト(作品、言説)を一方的に落とし込むものとなる(『読み方』、p95)。本論でも取り上げた中西新太郎の「排外主義的言説を支持する」、「世界的視野を持たず持とうとしないアンファン・テリブル(恐るべき子どもたち)」という読者規定に現れているように、それらはいみじくも鏡に映った自らの反映像、「自身の似姿(シミユラクラム)」(投影像)を論じたものに過ぎない(中西、2006、p104)。すなわち中西は、「今日の青年層にたいする、その心情や振る舞いの『わからなさ』に対する不安と不満」を解消すべく、極めて恣意的に(「自身の似姿(シミユラクラム)」として)『嫌韓流1』とその読者を読み解いたのである(中西、2006、p104)。
 ※ただし中西の議論は独自の問題意識に基づいて構築されたものであり、少なくともその意味で一定の評価に値する。むろん本論も中西の議論の独自の意味や意義、言説としての価値を全面的に否定するものではない。

*68「批評(criticism)」とは、読み手が自らの視座からテクストを読み、価値判断を行うことで、テクストに新たな意味を付与し、自らテクストを作りだす(書く)表現行為である。
 読み手は様々なコードによって重層的に規定されており、歴史的、文化的に構成された主体(存在)として、世界の物と人間の複数性が作りだしたネットワーク(重層する物と人間の共同世界)、「諸制度が網の目をなし、政治的な諸力に満ちた現実世界」において、何らかの位置を占めている(『読み方』、p4)。本論において「批評」とは、単純な表現行為ではなく、他者に見られ聞かれ、応答されることを悦びとする自己革新のための表現活動である。その結果として、「批評」はこの人間世界の中に新たな固有の始まりを生み出す。すなわち創造的な表現活動である「批評」は、「個々の主体が世界にしめる彼なり彼女なりの位置を理解し」、そのうえで自らの(その意味で政治・イデオロギー的でもある)立場から、共通のコードである「集団の声を用いて、他者のために語るとき、はじめて可能となる」のである(『読み方』、p99)。それは逆に言えば、自らの視座や立場を自覚していない者は、(新たな事柄を始める表現活動である)「批評」を行うことすらできないということであり、同時に「他者のために語」られていない批評、他者を意識しない批評は(スコールズが言うような意味での)「批評」ではあり得ないことを意味している。そしてこれらの点を理解しているからこそ、スコールズは鈴木みどりらと同様、教育を重視し、読者(学生)による自発(能動)的な視座の獲得と主体性の確立を強く訴えているのである。

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