HOME » 論文一覧 » 『表現者としての読者』 » インターネットが明らかにする重層的な読者像
以上、3つの要点を見てきたが、『嫌韓流1』に固有の問題は、①読者をある種のメディア・リテラシーを備えた批判的な読み手として捉え、②能動的な解釈を行う独立した一個人と認め、③同時に能動的な書き手ともなりうる重層的な存在として捉え直すことで、はじめて浮かび上がってくる。
テクストの力に服従し、書き手の意見(メッセージ、考え方)を受け入れるにしろ、テクストが提示する考え方や暗黙の前提としている価値観を拒絶し、批評という表現行為によって自ら新たなテクストを産出するにしろ、読み手はその読み書きの過程において常に何らかの(その意味で括弧付きの)「主体性*69」を発揮している。その意味で現代において(少なくともインターネットに日常的に接している)読者は常に、読者であると同時に表現者であり、受動的な消費者であると同時に能動的な活動者としても存在している。
この事実は何よりも、『嫌韓流1』が「すでに発売当初において」、「同じ嫌韓流の人々たちからも、“ネットで流通している情報をまとめただけで新味はない”“構成、作画などマンガとして見れば決して出来はよくない”」と、その内容や表現の稚拙さが酷評されていたこと、その上でベストセラー化したことからも証明される(唐沢2005)。当初の購買層がネットユーザー中心であることからもわかるように、『嫌韓流1』は「事前にインターネットなどで内容についての情報が流され」、「ネットユーザーを発火点にして予約が殺到」した結果、ベストセラー化したのであり*70、それはすなわち読み手が作品の欠陥を踏まえた上でなお『嫌韓流1』を購入していたことを意味している。読者の購買という行為は、(ネット上での売り上げランキングにその結果が反映されることで)その行為に対する応答(反応。少なくともその一部)が彼らにも読み取り(確認)可能な、ある種の表現行為としての側面を持つ*71。そして『嫌韓流1』はインターネットという特殊な表現空間に現れ、話題となることで、その場に集う不特定多数の読者を繋ぐ介在物(テクスト)として存在をはじめたのである。そして『嫌韓流1』は(必ずしも作者の意図や主張内容とは関係なく)話題となっているがゆえに読まれ、読まれるがゆえに話題となるテクスト(介在物)となり、ベストセラー化した。
『嫌韓流1』というテクストとそのベストセラー化が示唆しているのは、特殊な表現者として存在し始めた現代における読者の生の在り方、そして彼らを決定的に条件づけているインターネットという表現空間の存在である。そこに現れたこの古くて新しい、テクストの読みと書きにまつわる問題には、特殊な表現者としての読者の可能性と悦び、孤独と苦悩の存在が示されているのである。
本論では読者を表現者と見なすことで明らかになる、現代における読者の生の在り方と、そこに見いだされる問題の所在を、『嫌韓流1』のベストセラー化という具体的な素材を用いて概説してきた。だが本論で明らかとなったのは、あくまでも彼らの生の在り方を条件づけている新たな基礎的な条件(インターネットという特殊な表現媒体兼表現空間)の存在のみである。本来であれば、そこから当然展開すべき諸問題、すなわちいまや読者の生の在り方を決定的に条件づけるようになったインターネットという特殊な表現空間(媒体)の、その現れの空間としての特性(リアリティーや空虚さ)や、その存在を前提とした読者の特殊な主体形成の在り方、さらにはそこで彼らが直面している孤独と苦悩、可能性や悦びといった、まさに実存(一回的で個別的でかけがえのない人間の生の在り方)の問題については、紙幅の関係から断念せざるを得なかった*72。
だが既に北田暁大が、「国家、純愛、電車男」にハマる2ちゃんねらー(ネット掲示板2ちゃんねるの利用者)たちの在り方を、「『人間』たることを欲求するゾンビ」、「『内面なき実存』にとりつかれたゾンビ」(傍点原文)と形容したように(『嗤う』、p226)、この問題はまさに今、確固たる世界とそのリアリティを奪われ、絶望し苦悩する孤独な人々があふれる日本だからこそ、思索する個人個人に応答が求められる問題となっている。
そしてさらに言うならば、香山リカは、彼女が懸念する「ぷちナショナリズムに向かいつつあるいまの日本について、ナンシーや高村薫以上にわかりやすく、あるいは根気強く一般の人々に伝えようとする言論人」が「まったくと言ってよいほど見当たらない」と述べている(『ぷち』、p176)。またそこでは朝日新聞社の『AERA』2002年8月12・19日号の特集、「日本にはなぜ哲学がないか」が引き合いに出され、「『日本哲学界』の研究機関誌『哲学』の最近三年のバックナンバーの論文に『日本そのものの崩壊現象、ないしは現実に立ち向かったと思われるものは一本もない』」と結論づけられていることが述べられている(『ぷち』、p176)。
その真偽はここではおく。否、問題ではない。むしろここで重要なのは、その真偽や個々の研究者の意識はどうあれ、少なくとも日本の近年の哲学界の営為が、香山をはじめとする読者、『AERA』が想定するような多くの読者には、見えもせず、聞こえもせず、まさに彼らにとっては存在しないに等しいものとなっている、という事実なのである*73。すなわち香山や小林、山野らも含め彼らのテクストの多くは、哲学は、いったい誰に向かって、何をやっているのか、という彼らの怒りと絶望そのものの「現れ」なのである*74。彼らはその「現れ」でもって、哲学の徒をこそ告発している。そしてそこにはまさに、現代に生きる者にとっての「表現」と「活動」の問題が存在しているのである*75。
芸術学部出身ということもありまったくの専門外ではあるが、筆者はもしも哲学がソクラテスが言うような万人に必要な「魂の世話」であるとするならば、現状で日本の哲学(および実存思想)に求められているのは、まさに本論で扱おうと試みたような、必死に自らの「生」と「生きる意味」を求めて足掻く人々が、自ら「魂の世話」をすることに繋がる議論なのではないかと考えている。そして筆者はこの困難な時代において、哲学(実存思想)ほど人々に求められ、その「現れ」を待ち望まれているものはないと確信しているのである。
《筆者としては、たとえ題材や議論の内容が稚拙だったとしても、少なくとも自らの旗幟を鮮明にすべきだと思い、敢えて確信犯的にこの議論(発表)を構築した。これは一人の表現活動者による応答の試みであり、一つの見方の提示(批評)である。このテクストが何らかの力を発揮し、この現れの場において他者の応答を呼ぶことがあれば、筆者にとってそれに勝る悦びはない。》
(すぎうら もとい・日本大学大学院藝術学研究科OD)
*69「主体」および「主体性」の問題は、現代の哲学においても常に論争となっているものであり、専門領域が異なる筆者にとっては、荷が勝ちすぎる問題である。また「主体性(subjectivity)」をいかに定義づけるかは論者の文脈によって異なり、一概に言うことはできない。
だがテクストの読み書きにおいて読み手が行っている判断には、少なくとも何らかの読み手の「主体性」が現れている。なぜなら読み手はテクストの力やイデオロギーや著者の意図の奴隷(いやしいしもべ)ではなく、テクストの読み書きには常に、自由と共に権力と責任が存在しているからである。ある意味で読み手の主体は(その有無を含めて)様々なコードによって構成されたものだと言えるが、それらのコードは、読み手の見方を制約しつつも、同時に読み手の自発的な思考と行動を可能にするものである。なぜなら読み手のコードは必ずしも単一ではなく、「われわれの手元に、使い切れないほどの数のコードがあることもめずらしくはない」(『読み方』、p261)からである。そしてこの読み手の中におけるコードの複数性、「読者内部の差異」、それに伴う価値判断の存在こそが、「意図に反する意図(カウンター・インテンシヨナリティー)、分裂した目的、抑圧されたものの回帰」といったテクスト内部の矛盾や差異と共に、テクストの読み書きにおいて「読者がなにがしかの解釈の自由を発揮」し、同時にそこで自らの主体性を少なからず現すことができる根拠となっているのである(『読み方』、p247)。そのため本論では主体を、可塑性を持った更新(構築)され続ける存在として捉え、あくまでも暫定的な括弧付きの「主体」として表記する。そしてここでは「主体性」を「認識や行為の主体でありまたそれらに責任を取る態度のあること」として仮に定義しておく(『岩波哲学・思想事典』)。
なお本論における「主体」や「主体性」の定義は、哲学者の渡邊二郎が、「自己として生きる」ことを「様々な経験や体験を経めぐって、その中に飛散しながら、しかしそれらをおのれへと取り集めて、統合しながら、その自己への還帰がふたたび様々な事象への没頭や従事に向かって拡散し、さらにまたそれが自己へと取り集められて、自己へと立ち還ってくるというありさまで、生きる」ことに他ならず、それこそが「主体として生きる」ことであると述べた、まさにその議論を踏まえてのものである(渡邊二郎『ニヒリズム-内面性の現象学』東京大学出版会、1975年、p15。以下、『ニヒリズム』)。*70大月隆寛は、むしろ「発売当初は書店の店頭になかなか現物が並ばないという状況」が生み出されたことで、「その分、飢餓状況ができてしまい、余計にヒートアップしたところもあります」と指摘している(大月、2005b、p165)。その意味でも「ネットだから」という理由は大きな説得力を持っているのだが、既に示したように『嫌韓流1』がベストセラー化したことの原因や理由は、「ネット発の素材がもとになっているから」などといった粗雑な分析によって説明されうるものではなく、この点に関しては、より精緻な分析が必要となるのである(大月、2005b、p166)。
なおインターネットによる情報の広がりが作品のベストセラー化に大きく影響を及ぼした例としては、大月も取り上げている『電車男』があげられるが、この作品は「ネット発で草の根から火がつき、書籍化されてベストセラーに、さらには映画化、テレビ化」、さらには舞台化と「メディア・ミックスの真っ只中に放り込まれてメジャーになった」ものである(大月、2005b、p166)。これらの事例を踏まえた上で、インターネット上での独自のコミュニケーションの在り方を分析した言説としては、本論でも取り上げた北田暁大による『嗤う』や、鈴木謙介による(鈴木、2005b)などをあげることができる。*71本論で『嫌韓流1』のベストセラー化に即して見てきたような、読者による購買行為が持つ表現行為としての側面、すなわち表現者としての読者という側面は、古くから存在していたものである。それは人間が常に読み書きする存在であるように、疑いようのない事実である。たとえば商品の売れ行きのみならず、テレビの視聴率や、携帯電話の通話料、ラジオ番組に送るハガキ、ひいては現代人の購買行動にも大きな影響を与えている、原始的な口コミやうわさ話すらもが、読者による表現行為として捉えられる。これは言い換えれば、読者が遥かな昔から単純な消費者としてのみ存在するものでないことを意味している。
しかし技術の進歩により、読者がインターネットという日常的かつ不特定多数の他者に自らの存在を現すことを可能にする表現媒体(すなわちある種の公的空間)を手に入れたという事実、さらには「先進国社会においては、ほとんどの人々が起きて活動している時間の半分近くを、どのような類であれ、メディアにさらされながら過ごしている」という事実を鑑みれば(『危機』、p12-13)、この特殊な表現空間におけるテクストの読み書きの問題が、過去とは全く違う重みと切実さをもって現代の読者に迫ってきているのは疑いようがないのである。*72他にも山野車輪と小林よしのりの自己規定の在り方を比較することで見えてくる表現者としての在り方と主体形成の問題、表現行為と表現活動を決定的に分ける他者の存在、応答が見られ聞かれることの決定的な重要性、介在物としてのテクストと個人の読みとの関わりなど、語り足りないものは多い。
*73この「現れ」や「応答」に対する飢餓感や問題意識は、香山リカのみならず、小林よしのりや山野車輪をはじめとする多くの論者(とその読者)に共通するものである。小林の「知識人」批判は、その批判(怒り)の根拠をまさにこの「現れ」と「応答」の不在(欠如)にこそもっている。そして香山は、少なくともそのような「現れ」が「見当たらな」かったこそ、非専門家でありながら敢えて(不完全なものと半ば知りつつ)「無邪気なプチナショナリストたち──と、彼らを生んだ社会背景についての検討」を行ったのである(『ぷち』、p10-11)。
*74筆者は必ずしも香山リカや小林よしのりをはじめとする論者(表現者)たちの議論の内容や考え方を支持するものではない。だが少なくとも香山らは自らこの困難な状況に対し、愚直に「問い」を問い、その拙いながらも自ら見いだした答え(真実)でもって、貧しい環境世界で孤独に苦しみながら必死で「応答」を求める人々に対し、彼らにわかる言葉(共通の介在物・道具)で「応答」を試みたのだと言える(ここでは小林らの作品に見いだされる「問い」の問題については省略する。なお半ば当然のことながら、その「問い」の試みの多くは、必ずしも有効なものとは言えず、その多くが既存の党派的な枠組みの中へと回収されて終わっている)。たとえそれがどれほど貧しく、歪んだ答え(真実)だったとしても、筆者は彼らの自ら「問い」を問う姿勢、その世界への「現れ」でもって、自ら「応答」を試みようとした姿勢には、一定の敬意を払わざるを得ない。誤解を恐れずに言うならば、少なくともその意味で、彼らこそがまさにこの困難な時代に於いて、その人自身に根ざした、一つの生きた視界の切り拓きとしての(まさに実存の)「哲学」を為そうとした者たちだからである。しかし同時に、その彼らの現れた姿こそが、この極端な精密化と細分化によって知の秘境が作られた現代において、なお自ら思索しようとする者の悲しい在り方、そしてその裏返しとしての日本の哲学のある種の貧しさをこそ象徴するものなのではないか、と筆者は考えている。
*75筆者は専門の研究者ではないため、敢えて言及しなかったが、本論で述べられた「表現」や「現れ」、「消費」や「活動」、「物の世界」や「共同世界(common world)」、「介在物」や「リアリティ」、「複数性(多数性)」や「孤独」といった用語の区別や定義は、『人間の条件』(志水速雄 訳、筑摩書房、1994年)で展開された哲学者のハンナ・アーレントの議論を背景に行われている。
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