HOME » 論文一覧 » 『嫌韓流』は如何なる蒙を啓くのか? » マンガ嫌韓流の政治化
2005年夏に山野車輪が描き下ろした『マンガ 嫌韓流』(晋遊舎、2005年、以下『嫌韓流』と略記)は、小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』シリーズ(以下、『ゴー宣』と略記)以来、もっとも多くの論考や批判の対象となったマンガ作品である。『嫌韓流』は作品全体を通じて韓国に対する違和感と嫌悪感を率直に表現した政治的な主張内容を持つマンガ作品だが、主にネットの口コミを介して評判を呼び、結果的に推定発行部数30万部以上のベストセラーとなった。1990年代に登場した『ゴー宣』の成功以降、マンガ表現は現代の言論の場において、大きな政治的影響力を秘めた表現媒体としてあらためて認識されるようになった。実際、『嫌韓流』に対しては、『ゴー宣』と同様、その主張内容に対する総合的な反論集、『『マンガ嫌韓流』のここがデタラメ まじめな反論』(太田修,朴一ほか、コモンズ、2006年。以下『ここがデタラメ』と略記)が出版されたが、このような反論集が作成されること自体、マンガ表現の持つ政治的な影響力が(少なくとも政治的に対立する立場の者にとって)、無視できないものであることを物語っている。
だがマンガ表現が行使する政治的影響力を巡って多くの分析が行われ、作品そのものに対しても多くの批評、批判が行われている一方で、マンガ表現を巡る議論には、暗黙の内に認識されながらも、十分に検討されているとは言い難い重要な側面が残されている。それは『嫌韓流』の議論を超克するためにこそ求められるはずの、政治的な次元に回収されない、個別的で主体的な真実と、その問い方を巡る問題である。
前述の『ここがデタラメ』の議論を始めとして、『嫌韓流』を単なる政治的プロパガンダとして片付ける議論は数多い。事実、マンガ表現が論壇において注目されるのも、その政治的な影響力に負うところが大きい。だが『嫌韓流』の議論の根底には、紛れもなくこの真実の問題が存在しているのであり、たとえ作者である山野車輪が行った「問い」の試みが有効なものとは言い難かったとしても、この個々人の主体的な真実を求める「問い」の問題こそが、この作品が現代の知の空間に提示する最大の問題であることに変わりはないのである。
本発表は『嫌韓流』の根底に伏在する、この真実の問題を明らかにすることから、『嫌韓流』とそれを取り巻く既存の言説の双方を分析し、この作品が逆説的に問いかけている現代の知とアイデンティティを巡る根源的な問題の存在を明らかにするものである。
NEXT >> 嫌韓流における問い
日本マンガ学会発表原稿―目次/参考文献 << BACK