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『嫌韓流』第1話において、このマンガの主人公である沖鮎要は、ある重要な「問い」に直面させられる。それはかつて朝鮮総督府に勤務していた祖父が物語る「朝鮮で暮らしていたワシらの実体験に基づいた話」と、「ちゃんと学校で習った」植民地朝鮮の話との深刻なギャップに起因するものである。要の友達である在日朝鮮人の光一は、この祖父の話を悪質なデマとして片付け、「じいさんは孫に軽蔑されたくなくて ウソをついてるだけだ オマエ騙されるなよ」と発言するのだが、ここで要は「おじいちゃんがウソを言っているとは思えない」が、「かといって光一が言ったことはマスコミとかでも言われていることだ」として、深刻なジレンマに陥るのである。
ここには相反する物語の狭間で「問い」に悩み、真実を主体的に求めようとする主人公の姿がある。作品としての『嫌韓流』は、その後、要が大学で歴史サークルに入り、先輩の下で歴史的な知識を勉強していくことで実際のストーリーが展開していくのだが、その過程で明らかにされる山野自身の政治的な見解や主張内容とは別の次元で、『嫌韓流』にはその発端に、何が真実なのか、より根源的には、真実とは何か、という真実を巡る「問い」の問題が存在しているのである。
だが『嫌韓流』においてこの「問い」の問題は、二者択一で提示される既存の政治的な言説(物語・見解)のうち、どちらがより正しいのか、そしてどちらが間違っていて、誰が騙されているのか、という政治的な「正しさ」を巡る問題へと矮小化される。それはあとがきにもあるように、山野が「偏らずに様々な情報を吟味して、自分なりの見解を求め」ようとしているからであり、他者が与えてくれる情報や、既存の知識の中から、もっとも「正しい」とされる答えを見つけ出し、括弧付きの「真実」を受動的に選び取ろうとしているからである。この事実は知識がないために反論すらできなかった要が、括弧付きの「真実」を他者(先輩)に教えてもらい、政治的に「正しい」とされる知識を勉強していくことで、無知な状態から抜け出し、自信を深め、アイデンティティを確立させていく、この作品のストーリー自体が雄弁に物語っている。それはすなわち山野が個別的で主体的な真実を問うているのではなく、客観的に「正しい」とされる答えと、その「正しさ」を保証してくれる最終的な根拠、アイデンティティの基盤たり得る絶対的で普遍的な価値規範をこそ求めていることを意味している。そこにあるのは一見ラディカルに見えるだけの偽りの「問い」の在り方であり、既存の価値規範を素朴に信じられなくなった疑い深い個人が、新たな価値規範を求めてさまよい続け、保証済みの権威や伝統の元にあらためて回収されていこうとする姿なのである。
このように既存の価値規範や、それに依拠するおのれ自身の在り方についての根源的な問いなおしを行わない山野の「問い」の試みは、その政治的な立ち位置と、選ばれた「正しさ」を保証してくれる政治的な価値規範によって、二重の意味で(政治的に)限界付けられている。『嫌韓流』とは、山野車輪という歴史的に限界付けられた個人が、自らが依拠する政治的な価値規範によって、集めた情報を取捨選択し(その意味で同時に隠蔽、抑圧し)、学的な視座によってその「正しさ」を権威(根拠)付け、その歴史的に限界付けられた政治的な立ち位置から見える括弧付きの「真実」のみを編集・再構成して表現したマンガ作品なのである。それゆえ『嫌韓流』は政治的な次元を超えるものとはなり得ず、そこで明らかにされた括弧付きの「真実」とされるものもまた、歴史的、政治的に異なる地平に立つ他者に対し説得力を持つものとはなり得なかった。こうして『嫌韓流』は政治的な意味内容へと回収され、真実を巡る問題もまた、その「問い」と共に潜在化したままで終わったのである。
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