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一方で『嫌韓流』を政治的な言説として規定し、その主張内容に批判を加えた『ここがデタラメ』に代表される言説もまた、『嫌韓流』と同様、政治的な意味内容への回収を免れるものではなかった。そのエピローグにおいて編著者である朴一が、「「こんな漫画、無視すればよい」という声」があることを認めつつも、「このまま放置しておくことは、真の「日韓友好」の阻害要因になると思われる」(強調は引用者、以下同様)と述べたように、この反論集はまず第一に『嫌韓流』に対し政治的に対抗することを目的として編まれている。朴たちが『嫌韓流』を無視し得ないのは、その政治的影響力の大きさゆえであり、彼らにとって『嫌韓流』とは、本質的に政治的な作品なのである。それは彼らがマンガ表現を、政治的な影響力を行使する道具(媒体・手段)としてのみ見ていることを意味しているのであり、そこには主体的な真実を巡る「問い」の問題は存在すらしていない。
この事実は「すでに『マンガ嫌韓流』『マンガ嫌韓流2』を読まれた方は、ぜひ本書と読み比べていただきたい。もちろん、どちらの言葉に説得力があるか、どちらの主張がまともであるかの判断は、読者に委ねたい」という朴の発言からも裏付けられる。『ここがデタラメ』の議論において問われているのは、主体的で個別的な真実などではなく、まさに「どちらの言葉に説得力があるか」ということなのであり、朴によればその判断は、彼らの主張の政治的な正しさ(まともさ)を認める読者によってこそ下されるのである。それゆえ朴たちは自らの議論の説得力を上げるべく、学的な視座を利用し、彼らにとっての「真実」を権威付け、できるだけ政治的な影響力を高めようとするのだが、皮肉なことに、そこには『嫌韓流』との間における奇妙な相似が存在しているのである。
この二つの相反する政治的な言説は、共に既存の言説(議論・見解)に対して感じた違和感や嫌悪感を発端として、反証をあげながらその言説を批判、解体していき、その後に自らが依拠する価値規範や政治的立場に基づいた、括弧付きの“真の「日韓友好」”のための言説(物語)を代入、再構築していくという、共通の言説構造を持っている。両者は共に政治的な目的を持ち、その目的のために自らの言説を構築するという、本質的な政治性を帯びている。そこでは事実の取捨選択における(意識的、無意識的な)論者の価値判断の存在は不問とされ、その主張の「正しさ」は、自らが依拠する価値規範と、権威付けのために利用された学的な視座(制度的権威)、そして同じ価値規範を共有する多くの仲間(同胞・同志)たち(それがネット上であれ、現実生活であれ)によって、何重にも強化されていくのである。
だが彼らがどれだけ自らの「正しさ」を根拠付け、彼らにとっての「真実」を主張したとしても、両者の議論はその拭いがたい政治性と、自らを省みる姿勢の無さゆえに、同じ立場に立つ仲間以外の他者に対して普遍的で中立的な価値を示し得ない。両者の議論は本質的に、特殊な政治的立場から出された恣意的な一見解の範囲を超え得ず、だからこそ彼らは対立する言説に対する相対的な優位性を、議論の説得力や政治的影響力といったかたちで競い合うのである。
このように『ここがデタラメ』の議論もまた、『嫌韓流』と同じく、その政治性と自己省察の欠如ゆえに、政治的な意味内容への回収を免れないものであった。『嫌韓流』と『ここがデタラメ』の間にある差異は、何を本質的な問題として規定するのか、といった論者の依拠する視座や、彼らの価値規範を含んだ上での、互いの政治的な立場の違いのみである。それゆえ『ここがデタラメ』と『嫌韓流』は、共に政治的に強く規定された“政治的な言説”として等価なのである。
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