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嫌韓流とここがデタラメの奇妙な相似

3)奇妙な相似の理由

 だが同じ政治的な言説でありながら、且つより説得力のある、まともな、その意味で政治的に「正しい」はずでありながら、むしろ事態は『ここがデタラメ』においてより深刻である。なぜなら朴たちの議論には、『嫌韓流』においてほのかに見受けられたような主体的な真実を求める「問い」の問題が、その発端(根底)においてすら存在していないからである。

 朴たちの議論には、自らの政治的立場や依拠する価値規範を超えて真実を問うような姿勢が存在しない。否、むしろそのようなことは彼らにとって禁忌ですらある。なぜなら朴たちにとって、真実とは既にして与えられた所与のものであり、その「正しさ」を疑い、「問い」を問うことは、自らの主張の根拠そのもの、アイデンティティの基盤自体を堀り崩すことを意味するからである。朴は「日本人に韓国を正しく理解してもらえる書籍がたくさん出版されることが望ましい」と述べる。彼は「正しい」理解や、その「正しさ」を保証してくれる既存の価値規範を信じて疑わない。そこには真実を自明のものとし、ある種の信条を絶対的なものとした「正しさ」の奴隷、先入見の鎖に囚われ、それを意識することすらなくなった一人の囚人の姿がある。彼らにとって真実とは問うものではなく信じるものであり、自らの「正しさ」とは疑うものではなく、より絶対的で普遍的なものとして、学的な視座を始め、あらゆる手段によって権威付け、強化するものなのである。

 だが朴たちが批判した『嫌韓流』とは、正にこのような彼らの独善的な態度をこそ批判するものではなかったのか? そこでやり玉に挙げられていたのは、既存の価値規範の体現者、自らを省みることのない「正しさ」の奴隷、彼ら独善的な宣教師たちではなかったのか? そしてそもそも『嫌韓流』とは、彼らが信じて疑わない既存の言説や価値規範に対する疑念からこそ出発したものではなかったのか?

 確かに山野の「問い」の試みは決して有効なものとは言えず、その議論もまた政治的な意味内容へと回収されるものであった。だがそれは必ずしも『嫌韓流』の中の「問い」の試みそのものが不毛であったことを意味しない。むしろ山野は、彼ら既存の言説の信奉者たちが行っている他者批判のための批判、自己正当化のための権威づけ、独善的な教化・啓蒙・布教のための言説構築と言った、彼らの論理構造をこそ忠実に模倣したのであり、だからこそその「問い」の試みは政治的な陥穽に陥ったのである。それはすなわち山野が、見習い、模倣すべきそれ以外の「問い」の問い方を、既存の言論空間の中に見出せなかったことを意味している。そしてここにこそ『嫌韓流』と『ここがデタラメ』の言説構造における奇妙な相似の理由が存在しているのである。

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