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カントの問い―啓蒙とは何か?

おわりに―補足説明/展望

 ここで最後に、啓蒙についての若干の補足を述べたい。啓蒙とは必ずしも呉が言うような意味での括弧付きの「啓蒙」、すなわち自省無き独善的な宣教師たちが行っているような、信奉する価値規範の押しつけや上書き行為のみを意味するものなのだろうか?

 かつてカントは「啓蒙とは何か」(『啓蒙とは何か―他四篇』篠田秀雄訳、岩波書店、1974年)という小論において、「主として宗教に関する事柄」(強調は原文)を念頭に、「啓蒙とは、人間がみずから招き、従ってまた自分がその責めを負うべき未成年状態から脱出することである」と述べた。そこで考えられている啓蒙されるべき未成年状態とは、「他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得ない状態」のことであり、カントは啓蒙の一語をもって、「未成年状態という軛(くびき)から自分で脱出」し、各人が自らの「独自の価値」と「自分で考えるという各人の使命」とに目覚め、それらを「理性に従って正しく評価するところの精神」を、互いに、そして「諸人に広く宣伝する」ことをこそ求めたのであった。

 だがカントは既にして述べている。「大方の人々」が「なお身を終えるまで好んで未成年状態にとどまり、他者がしたり顔に彼等の後見人に納まるのを甚だ容易ならしめている」ことを。彼らは「殆ど天性になり切っている未成年状態」に「愛着をすらもっていて」、「後見人たちにそそのかされると、こんどは自分達のほうから後見人に迫って、いつまでもこの軛に繋いでおかせる」のである。この他者に対する依頼心、アイデンティティの基盤を自分以外の他のものに求め、自らを既存の価値規範の奴隷として差し出すこと、それこそが『嫌韓流』や『ここがデタラメ』において現れていたような政治的な意味内容への回収の根源的な理由なのである。カントが言うように「その原因は実に人間の怠惰と怯懦とにある」。だからこそカントは「敢えて賢こかれ!」、「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」という言葉をもって「啓蒙の標語」としたのである。

 いつの時代においても求められているのは、「人間の根本的な考え方の真の革新」である。「他者の指導」に従うのではなく、「自分で考える」こと。「問い」を問うこと。客観的で一般的な正解を求めるのではなく、開かれた地平の中で、他者や世界と関わり合いながら、おのれの実存に基づいた、個別的で主体的な真実をこそ「問い」続けることである。その「問い」の過程においてこそ、事象は打ち開かれ、存在の真理は立ち現れてくる。またそのような人間の実存的な在り方においてこそ、この絶対的な価値規範が失われた現代において、唯一有効なアイデンティティの基盤たり得るものが求められてくるのである。そのためには自ら「考える」こと、主体的に「問い」を問うこと、その「問い」の問い方からこそ、始められなければならない。


※本発表は平成19年度に提出予定の博士論文「『嫌韓流』に見る主体性の放棄と自己疎外の構造」(仮題)を下敷きに、その第一章部分を主として用い、発表用に再構成を行ったものである。本発表で十分に取り上げることができなかったマンガ表現が持つ政治的影響力の問題や、マンガ表現をその社会的、政治的影響力のみで捉える偏った視座の問題、現代の知の混迷状況と、そこに見られる現代人の実存の問題、真実とその問い方、存在の真理の現れの場としての芸術(その一つの在り方としてのマンガ表現)といった問題に関しては、博士論文を含む今後の機会に主題的に論じていくこととしたい。

2007/06/16 日本大学大学院藝術学研究科博士後期課程 

杉浦 基(すぎうら もとい)

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