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本稿では自己紹介欄では書ききれなかった、杉浦基が表現活動を本格化させ、このウェブサイトを立ち上げた理由について書いていきたいと思います。
日本大学大学院芸術学研究科に在籍していた頃の杉浦基は、個別的で主体的な「真実」を追い求める閉じた思索者でした。僕はこの頃、何よりも自分自身が納得するために、襲ってきた「問い」に対し、応答する必要があったからです。
大学院時代、僕は全ての物事を放り出してでも、この「問い」に対し応えなければならない、という衝動に駆られていました。それは自らに謎として現れてきた「問い」が、「『生きる意味』をどのようにして手に入れるか」という自分自身の人生と生き方そのものに関わる問題だったからです。これは結局、僕が幼い頃から考え続けてきた謎であり、その学術的な形での新たな現れでした。
このように大学院時代の僕は襲ってきた「問い」を自分自身の問題として強く感じていたがゆえに、おのれの実存(生の在り方・生き方)に基づいて応答することにのみ、全精力を傾けていました。僕は自分自身が納得できる個別的で主体的な「真実」を獲得するために、(少なくともこの問題に関しては)独りひきこもり、孤独な探求と思索を続けていたのです。
大学院時代、僕にとって物を書くという仕事は、いまだ自覚的に行われる表現行為ではありませんでした。
この頃、僕の関心の中心は博士論文をひとつの仕事として完成させることにありました。しかし自ら思索する者であれば当然のことながら、その目的は博士論文を完成させることそのものにあったわけではありません。僕は博士論文を書く機会を、あくまでも一つの思索の契機として捉えていました。僕は何よりも自分自身の納得のために、主体的に「問い」を問うていたのであり、博士論文は思索の結果として、ある種、副次的に生み出されるものとして捉えられていたのです。
本稿も含め、僕にとってテクスト(論文・作品)とは、まず第一に自ら主体的にテクスト(作品・資料・文献)を読み書きする思索の過程において、自ずと(その意味で否応なく)結実してくるものです。その意味で僕にとっては博士論文もまた、個別的で主体的な「真実」を探求する過程において、自ずと生成し、結実してくる思索の副次的な産物でしかなかったのです。
自ら考え、自覚的に行為することを求める僕にとって、納得は全てに優先します。納得しなければ、僕は自分自身を信じて行動することができません。僕は「真実」を掴んだという確信がなければ、自ら力強く前に進むことができないのです。その意味で納得はあらゆる物事に優先します。
僕は常に内的必然性に突き動かされて、「問い」を問い、物を書いているのであり、それはこの文章についても同様です。その意味で僕は自分自身を偽ることができない、とても不器用な人間なのだと思います。
大学院時代、僕は「納得のいく形で博士論文を完成させなければ、一歩も前に進めない」と考えていました。そのためにこそ僕は博士論文を書いたのであり、僕の中でこの目的(欲求・欲望)と結果(行為・手段)の主従関係が逆転することは、いままでも、そしてこれからもありえません。
大学院時代の僕の仕事(研究)の一つは、他の表現者(作者)が為す表現行為や表現された個別のテクスト(作品・言説)を、政治的な意図や欲望の観点から分析し、その政治性を明らかにすることでした。しかし僕は圧倒的に自省も経験も足りなかったために、自らもまた「論文を書く」という表現行為を行う表現者(研究者・物書き)でありながら、自分自身の表現行為やテクストの在り方については思いが至らない、極めて矛盾した存在となっていたのです。その理由は僕自身が表現活動者としての自覚を持たず、またそのような自覚を持てるだけの段階になかったからです。
当時の僕には、他者を意識するだけの余裕も自信もありませんでした。僕はただ自らの「問い」を問うことに忙しく、自分自身のためだけに、その思索を文字にして書き留めていたのです。僕の表現行為には、他者のために書く、という姿勢が欠如していました。当時書いたテクストは、いま読み返すと絶叫したいぐらい恥ずかしい物ばかりです。
これらの事実は大学院時代の僕の思索や表現行為が、あくまでも自分自身のための閉じた仕事(製作行為)であり、他者の応答を求め、他者に向かって為される開かれた表現活動ではなかったことを意味しています。僕が行っていた表現行為は、(少なくともある意味で一定の価値を持つ)ひきこもった仕事ではあっても、他者の応答を求める活動ではなかったのです。
杉浦基が日本大学大学院芸術学研究科に学位請求論文を提出し、芸術学の博士号を取得したのは2008年の春です。僕の博士論文は、一つの「問い」を考え抜き、自らの内に深く潜っていった結果できあがったものでした。
しかし大学院時代の僕は物を書くという上で完全に閉じていたのであり、その意味で他者に向かって開かれていませんでした。僕は他者に対する表現の在り方をほとんど意識せず、ただただ自分自身の内面とのみ対話し、自分自身の「問い」を問うていたからです。
それは今から見ると自分自身にひきこもるような閉じた在り方であり、その意味では論文を書くという表現行為も、自己満足に等しい貧しいものでしかなかったように思えます。実際、僕の博士論文は自己満足のマスターべーションと言われても仕方のないものでした。なぜならたとえいくら問題意識が高く、重要な問題を扱っていたとしても、僕の表現行為には他者の存在が決定的に欠けていたからです。僕は博士論文の製作段階において、自分自身とのみ対話し、思索を深めていました。そのため僕が作り出したテクスト(博士論文)もまた、僕自身の貧しい在り方を忠実に反映し、他者に対し、完全に閉ざされたものとなってしまっていたのです。
しかし自分が納得のいくまで「問い」を問うことは、僕が何者かに成るためには、絶対に必要な通過儀礼(過程)でした。虚飾を廃し、自らの言葉で考え抜いた末の結論は、僕に納得を与え、力強い自信をもたらしました。僕は自分自身のために博士論文を書き上げることで、いつのまにかかつての自分ではない何者かに成ったのです。
同時に博士論文の製作過程は、僕に表現行為におけるある重要な気づきをもたらしました。表現行為としての挫折と失敗により、僕は哲学的な思索に裏付けられた独自の表現活動論を構築し、自らの実存に基づいて、それを自ら実践することができるようになったのです。
自らの内面を掘り下げていき、ある程度の地歩を固めたことで、僕ははじめて自分の外側、すなわち他者や世界のことを積極的に考えられるようになりました。もちろん僕はこれまでもいくつかの学会(日本マンガ学会や実存思想協会)でささやかながらも公的に活動してきました。しかし自らの「問い」を問うことにのみ集中していた僕にとって、学会での活動はあくまでも思索を続けていく上での付随的なもの、発表もまた自らの仕事を完成させる上での副産物でしかありませんでした。たとえ多くの他者と対話し交流を持っても、僕の関心の中心は、あくまでも博士論文という形で結実することになる自らの「問い」を問いきることにあったからです。
他者の存在は書く者だけではなく、(表現者自身をも含んだ)テクストを読む者にとっての意味の獲得にも大きな影響を与えます。同じ表現行為ではあっても、表現者の中の他者に対する意識の有無が、表現されたテクストの現れ方や読みの在り方に大きな影響を与えるからです。これまでの僕の表現行為、文章(テクスト)を書く上での在り方は、自ら納得がいくまで「問い」を問い、博士論文を書き上げたことで180度変わろうとしています。
いま僕の中で現れてきている他者に対する意識は、決定的な変化を僕にもたらそうとしています。
そのため僕は大学院修了を機に、自ら一人の表現活動者として自覚的に行為すべく、表現活動を本格化させました。2008年6月に実存思想協会で実際に行った発表の原稿は、そのような意識の下で書かれたはじめての自覚的な表現テクスト(自覚的に表現された作品)です。発表原稿で書かれた内容や問題意識は、博士論文で考えられているものとほぼ同じですが、他者に向かう意識こそが、時を置かずに書かれたこの二つのテクストの在り方を決定的に違うものとしているのです。
博士論文を書き上げ、表現活動がもたらす可能性と悦び、「生きる意味」についての確信を得たいま、僕の関心は自らの内側に潜るような思索やアカデミズムの内側での仕事よりも、他者との開かれた対話や応答、活動の素晴らしさにこそ向けられています。
杉浦基が大学院修了後に突然、表現活動者(物書き)として積極的に活動を開始したのは、上記のような経緯と理由からです。このウェブサイト(ホームページとブログ)もそのような自覚的な表現活動の一環として立ち上げられました。
杉浦基は一人の表現活動者(物書き)として自ら書き表したテクスト(作品・論文)を携え、世界に現れたいと思います。他者に見られ、聞かれ、応答を求め、自分と世界における新たな変化と革新をこそ求めたいと思います。公的な現れの場における他者との対話や応答、活動こそが、僕に悦びをもたらし、新たな自己変革の可能性をもたらしてくれると僕は確信しています。
このテクストが何らかのテクストの力(textual power)を発揮し、この現れの場において他者の応答を呼ぶことがあれば、僕にとってそれに勝る悦びはありません。この文章(テクスト)を読んでいただき、どうもありがとうございました。
※本ウェブサイトで展開予定の『恋愛活動論』、および既に杉浦基が学会活動等で展開させている『表現活動論』に関しての詳細は、【思索テクスト】内の他の論考をご覧下さい。
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