HOME » 活動的コミュニケーション » ミクシィ(mixi)の甘い罠
本サイト『活動的生活:Vita Activa』が稼働してから3週間。本格的な軌道の修正を余儀なくされている。きっかけは相棒Aから「サイトはオナニーではない!」と批判されたことにある。原因ははっきりしている。僕はこれまで「ミクシィ(mixi)」で日記を書き続けてきたが、そこでついた悪い癖が抜けきれていないのだ。僕はミクシィが用意した甘い罠にどっぷり浸かっているのである。
- ネタ→特に面白さは必要ない。 マイミク=友だちなので、利用者の近況そのものがネタとして成立しうる。
- ターゲットとなる読者→マイミクだから読む。他人なら読まない。マイミク=友だちだから利用者自身に読み手は興味がある。
ミクシィに日記を書き続けることで、表現者には悪い癖が付きやすい。ミクシィに文章を書くと、自ずと自己満足のオナニー的な文章を書く癖が付いてしまうのである。
僕にとってミクシィは友だちや関係者への近況報告を目的としたものだった。それゆえ僕の日記を読む人たちは、おのずと僕に関心がある人に限られていた。それは僕の表現行為の対象となるターゲット、想定される読者像が僕の友だち、マイミクだけだったことを意味する。
彼らは僕の友だちである以上、僕自身に感心がある。すくなくともそのことを(いちおうの)前提としてマイミクシィに登録している。その意味で彼らにとっては僕自身そのものが興味の対象であり、僕の近況そのものがネタなのだ。だからこそ読者である友だちは僕が書く内容(ネタ)がどのようなものであれ、またどんな酷い文章であっても、継続して僕のミクシィ(表現の場)をチェックし続けてくれる。もちろんその文章が本当に読まれているのか否かは別として。
- 利用者側の動機→他者に認められたいという承認欲求が、多くの利用者を表現行為に駆り立てている。
- ミクシィ側の対応→承認欲求を満たすことが決定的に重要であることを理解。反応を可視化するしかけを何重にも用意。
彼らの反応は具体的には足あととコメントに現れる。僕には彼らが僕の文章をどう読んだかは、実際にはよくわからない。しかし足あとが残されることで反応は具体的に感じられる。視聴率や売り上げと同じである。安い代償ではあれ、それにより自分の表現欲求は、少なくともある程度は満たされる。表現したテクストを通じて、他者に自分が認められていると思えるからである。すなわち僕らを表現行為に駆り立てている表現欲求の正体は、他者に認められたいという承認欲求なのだ。
またミクシィには書き手のブログに足あとを残してもらうことを目的として、読み手の反応を誘うしかけがたくさん組み込まれている。トップページに示される友だちの新規投稿を表示する「マイミクシィ最新日記」などはその典型である。これを読み手がクリックさえすれば、足あとが残り、それで書き手は安い代償を得る。実際に読まれたかどうかは問題ではない。なぜならコメントが書き込まれない限り、それは利用者にはわからないし確認しようもないからである。足あとやコメントで反応が具体的に見えなければ、利用者にとってそれは無いのと同じなのだ。
- 利用者の取引材料→日記を書くことでメディア(表現媒体 兼 表現空間)としてのミクシィを利用し続けること。
- ミクシィの取引材料→反応を可視化する装置を用意し、利用者の承認欲求を満たす安い代償を提供してあげること。
ミクシィは利用者の承認願望を満たし、表現行為のモチベーションをあげるために様々な手段を用いている。足あとやコメントで反応を可視化し、書き手に常に刺激を与え続ける。
ただミクシィの本音としてはコメントまで書かれずとも良いのだ。足あとだけでも残してくれればそれで十分なのである。なぜならそれら安い反応だけでもミクシィの利用者との取引は成立しうるからだ。僕らはそれほど人との繋がりに飢えている。あるいみdミクシィに足元を見透かされている。取引材料となる反応が何も無いことが問題なのであって、反応さえ可視化できれば、ミクシィのメディアとしての商売は現状のように立派に成り立つのである。
そのためミクシィは書き手をこの表現空間に留めおくために、涙ぐましい努力を続けている。なぜなら利用者が文章を書くことで、ミクシィはメディアとして存在し続けることができるからである。ミクシィは自分自身のために、利用者を飼い続けようとする。利用者を甘い罠にかけ、ブログを肥え太らせようとする。利用者への甘い罠、それはミクシィのメディアとしての本質からくる目的と欲望ゆえなのである。
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